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パナマを越えて=本間剛夫=38

 私はその方へ叫んだ。
「願いしまあーす!」
 詰所から首を出した上等兵が、私の運んできた屍を認めて跳び出して来た。
 私は口早に事情を説明して、屍の安置を頼み、上等兵の霊に敬礼して奥に走った。各隊の命令受領者が二横隊に並んでいるのが見えたが、幸いまだ命令伝達の週番仕官の姿はない。私は急いでいつものように最後尾に就いた。命令受領者は下士官以上に決まっているが、第十六病棟は三浦軍曹が筆記の才能がないために私が任命されている。だから私の位置は最後尾に決まっているのだ。
 私は農耕班の命令受領者を探した。護送兵の死亡を報告しなければならない。
「お前、どうしたのか、その血は!」
 私の隣の伍長が頓狂な声をあげた。その声で列がざわめき、一同の視線が私に集まった。
 そういわれて気ずくと、上衣から袴にかけて、べっとりと血で汚れている。農耕班の曹長は最右翼にいた。私はためらいながら列を離れて曹長の前に立った。三角山から手を取り合って駆け下りた相手が、一瞬のうちに幽明境を異にする無常さ。
 その時になってはじめて人の生命の儚さが激しく私の胸を衝いた。私は挙手の礼をしたまま、暫く、なぜ、自分が曹長の前に立ったのかがわからなかった。血にまみれたこの不可解な私が挙動を各隊の下仕官たちが不審に思ったのは当然だ。
 挙手の礼をしたまま立ち尽している私を発狂いしたとでも思ったのだろう。曹長とその隣の軍曹が、突然私の両腕をうしろに廻して羽交い締めに下。その瞬間、私は我に返ったのだ。
「曹長どの……」
 声がかすれた。
「俺のところの患者が、どうかしたのか」
「患者ではありません……護送兵が死んだのであります。屍は師団衛兵所に安置してあります」
 私は一気に云った。
「護送兵が……上野上等兵が……か」
 曹長は信じられない、というように私の顔を睨んだが、その眼はすぐに驚きに変わった。
 私は患者の入院受け付けで知った護送兵の名が上野であったことを曹長の言葉で思い出した。
「自分達二人は三角山を越え、百メートルほど下がったところで、敵機の襲撃をうけたのであります。体を匿する余裕がなく、二人は抱き合っておりましたが、上野上等兵がやられたのであります」
「……わかった」
 沈痛な曹長の顔が歪んだ。
 私は瞼が熱くなるのを堪えながら、もとの位置に戻った。
 上野上等兵とは、出会いから離別までわずか二十分に過ぎない。それだけの時間に私たち二人は固く手を握り合い、爆音の下で互いに庇い合い、最後の時には精一杯の力で抱き合った。その死の恐怖の中の一体感が二つの魂を一瞬にして融合させたのだ。
 その瞬間、二人の間に、どのような感情も、厳しい軍律も、高貴な神々の教えも、善も悪も、美も醜も浸し得ない一体が構築されたのだ。魂の昇華とは、このような状態をいうのだろう。敵はその半身を奪い去ったのだ。はじめて、痛恨が涙となって私の頬を滴りおちた。
 病院の患者は週に一人は死んでいく。彼らに対して憐憫の情が湧かぬことはない。しかし、入院のその日から彼らは固く口をとざしてしまう。死の恐怖に直面してその中に自らを閉じ込めてしまう。