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パナマを越えて=本間剛夫=46

 医務室に行くと軍曹の姿が見えず、机はもとのままに整頓されていた。私は何故ともなく心の安らぎのようなものを感じて濠の奥に歩を移した。中村中尉の今朝の興奮が私の頭の中で不快な重圧を感じさせていたからだ。
 彼の年令では軍国の臨戦態勢の中で成長したはずだがあるいは軍隊教育のせいなのか、彼を締めつけている頑迷な排他思想の枠を外してやれるものなら、除いてやりたいのだ。彼の純粋な愛国心と忠誠心は立派なのだが、国家や民族だけを思想の対象とし、それだけが青春のすべてだとする哀れな偏狭さから解放させたいと思った。私のような二重国籍者もまた日本人であること、日本人にも、日本の外に住むべき別の国、別の世界があることを気付かせたかった。
 それからまた、国民を祖国に殉じさせるには、祖国もまた国民の忠誠にこたえるべき資格をもたねばならない。その疑問を中尉に投げかけることが、彼に別の世界への開眼の動機を与えることにならないだろうか。それには、私の二重国籍の自由の権利を説かなければならない。連合国側の国籍をもつ、いわば、敵国人である私の介護を受けることを潔しとしない彼のうしろめたきは、入院以来彼を苛み続け、彼の病状を悪化させている一因にもなっているとしか思われない。
「……中尉どの」
 私は中尉の枕元に蹲んだ。中尉は微かな息を吐いて天井を見詰めていた視線を私に向けた。
「わしは、やはり、兵長の看護をうけるわけにはいかないんや」
 低いかすれた声が彼の口から洩れた。何という偏狭な思想なのだろうか。栄養失調と三日ごとに襲うマラリヤの高熱に黒々と枯木のように痩せ細ってはいるが、自ら立ち上がろうと努力すれば死を免れる事も不可能ではない。
「……わしは、大島か細谷上等兵の世話になりたい。お前には、すまんことやけどなあ……」
 私はここで、今、中尉を説得してみたところでどうにもなることではないことを覚って立ち上がった。私にブラジル国籍離脱の意志がない限りは争いが続くだろう。偶然の個人の誕生と国家や民族とのかかわりに寛容と理解がないなら、二人の間には平行線があるだけなのだ。明日からは、大島か細谷上等兵に交替してもらおう。
 それにしても、私の二重国籍が、微兵官を悩まし、明日の生命の保証されない戦線にまで尾を引いて、私と接触する友軍の将兵に不快なしこりを与えることになろうとは全く予期せぬことだった。私はやはり、帰国すべきではなかったし、帰国しても、すぐさまブラジルに戻るべきだったのだ。

 昭和十六年の六月には外国航路の日本船は全く足留を食っていた。連合軍の経済封鎖が強められて日本は孤立化の中で活路を求めるために外交交渉か開戦かに追い込まれていた。
 私が経由してきたパナマ運河や、メキシコからカリフォルニアの太平洋岸の防備が大げさなのに驚かされはしたものの、日本もそれ以上の開戦態勢を整えているとは考えられなかった。だから、帰りの便船を外務省に依存してのんびりと構えていたのがいけなかったのだ。私がブラジルに帰るべき外国船は、貨物船ですら日本のどの港にも停泊していなかった。
 皮肉なことに、私が乗ってきた日光丸が横浜に入港した翌日、フランス籍の貨客船が出港したのが最後の外国船だったという。これはあとで分ったことなので、そのことが分っていたら、私はどんな難関をも越えてそれに乗船していたはずだ。