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パナマを越えて=本間剛夫=50

 微かな小さい靴跡は、踏み分けられた葦の間を点々と私の十六号病棟の方に続いていた。その方向から、三角山に登って行ったのだろうと判断したが、足跡はそこで絶えていた。
 起床までまだ三十分はある。わたしは小経に出、三浦軍曹の個室の前を注意深く通りぬけ寝床にもぐり込んだ。
 助ける、といって、どんな方法があるだろう―私は考え続けた。細谷と大島が眼を覚まして炊事場にいく様子だ。私は横になっていた。逃亡兵が、この島に生存していることは確実になった。夜陰に乗じて三角山の頂上付近に身を匿したとすれば、それは実に賢明というほかはない。捜索隊の盲点を完全に衝いたことになるからだ。
 墜落地点から、友軍は海岸を環状に連なるゴム林に捜索の重点を置くことは明らかだ。私は司令部への命令受領の往復に、単独で敵兵の所在を突き止めようと決心した。しかし、もし発見することができたとしても、いつ終わるとも知れない戦争の中で、かくまいおおせるだろうか。己の生命の保証もないというのに。いや、それは、その時に考えればいい。まず、早く見つけることだ。
 私は定刻よりも早く濠を出た。米軍は未帰還機の捜索のために必ず今日もやってくるだろう。敵の来襲が、いつもより熾烈になるだろうと考え、上空に身を曝らさないように、つとめて木立ちの下を選んでゆっくり歩を運びながら、小型の靴跡を見つけることに気を配った。しかし、その形跡は全くなく、砂礫の間から、ちょろちょろ尖った葉をもった雑草の斜面が続いているだけだった。
 山頂にたどりついた私は、西側に伸びる稜線の上に、一列に並ぶ大熔樹の群れを見渡した。その群れは連続しているのではなく、数十メートル間隔に点在していた。敵はあの熔樹の群れの中にひそんでいるに違いない。しかし、その周囲は余りにも明るすぎ、遮蔽物に欠ける。
 敵は地上に身に曝す事が危険なことは十分知っているとすれば、せめて蛸壺を掘るか、本格的な洞穴が必要になる。果たして、そのための工具を持ち合わせているだろうか。ともかく、雨露をしのぐだけの砦がなければなるまい。
 私は東海岸を見下した。昨日の潜水艇はもう見えなかった。私は西側の斜面を降り始めた。きのう銃撃された地点が目の前に来ていた。上野上等兵の後頭部から噴き出した血を浴びた石ころの黒い塊が拡がり、きのうと同じように青蝿が群れていた。私は目をそむけた。貪欲な昆虫の無神経さが腹立たしかった。
 小石をいくつか拾い上げて力いっぱい蝿の群れを目かけて投げつけた。蝿の群れは一瞬申しわけのように飛び上がるだけで、すぐまた血痕にへばりつく。こんな所作が徒労であることがわかりながら、傍若無人、蒙味な虫けらたちに激しい怒りがこみあげた。私は続けざまに石を投げつけた。一匹の蝿も殺せるはずはなかった。
 そのとき、突然、背後に爆音が起こった。私は転げるように坂を駈け下りた。走りながら新たな強い関心が司令部へ私をかり立てた。医務局に入った女の経過はどうか。彼女には生きて虜囚の辱めを受けぬという皇軍の観念はない。救助された安堵で眠り続けているに違いない。しかし、一人は逃げた。その敵兵は最善を尽くした満足感を持った筈だ。なぜ勝敗に未練なく両手をあげて降伏しなかったのか。
 なぜ、密林に姿を消したのか。それは考えようによっては、降伏以上に危険な選択であることを知っているからだ。おそらく、日本軍がシナ大陸や南洋の戦場で、どのように捕虜を扱ったかを知っているのだろう。