ホーム | 連載 | 2015年 | 終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長 | 終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(4)=棉作諦め洗濯屋「アジア」に
早田さんの妻笑子さん
早田さんの妻笑子さん

終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(4)=棉作諦め洗濯屋「アジア」に

 早田さんは「吉川家は1934、5年に渡伯してきましたが、その直前に私だけを残して家族は帰り、東京で暮らしていたそうです」という。「父は『性に合わない、ブラジルは嫌だ』って帰ってしまった。帰るお金はとってあったようです」と振りかえる。
 「あしあと」プロジェクトの渡航者名簿データベースで調べると、吉川順治は1935年4月29日サントス着のサントス丸だった。早田家の構成家族として渡伯した息子吉郎は、32年8月24日サントス着のブエノス・アイレス丸だ。
 『プロセッソ』103頁の吉川調書にも1935年渡伯とあるので間違いない。その当時、吉川はすでに58歳。同『プロセッソ』には《1923年に退役。7人の子どもに農業する機会を与えるために渡伯した》と書かれている。
 23年に退役なら46歳だ。その時、子供は長男の吉郎がまだ13歳、全部で7人もいる食い盛りをささえるために、軍人しかしたことのない吉川は苦労したようだ。「子供に農業をさせる機会を」と渡伯を決意したのであれば、故郷・新潟の実家には、それだけの土地はない――ということだろう。
 31年に日本陸軍は満州事変を起こして満州国宣言、33年に日本は国際連盟を脱退し、戦争に向けて一直線に向かい始めていた。
 吉川家が渡伯した理由を早田さんに問うと、「私も子供でしたから、大人たちの事情はよく知りません。おそらく長男が先に来ていたからでしょうか」と推測する。吉川家は全員渡伯してソロカバナ線ランシャリア駅近くのバルチーリャで棉作をしていた。
 一人残された早田さんは36年までバストスにいたが、その後、吉川家に合流した。「一所懸命に棉つくりをやりましたがそれほど儲からず、39年か40年頃にサンパウロに出ました。最初に長女の婿がサンパウロで洗濯屋をやっていて、調子がいいと言うので家族で出聖してビラ・マリアーナで洗濯屋を始めた」。子供7人に早田さんとたくさんの働き手がいたが、農業では成功しなかった。
 吉川本人は洗濯屋の仕事は手伝わず、謡の教授や頼って来る人の世話などをしていた。早田さんの妻笑子さん(86、富山)も「子どもが病気だとかいって、田舎から吉川さんを頼ってきた人がよくいたそうです。そんな時、吉川さんはサンパウロの医者や病院を世話してやり、誰それは治って良かったと喜んで帰って行ったという話をよくしていました」と人柄をしのぶ。
 本紙連載『日系洗濯屋の歴史』05年8月5日付に《臣道聯盟の吉川さん、うちにおったのよ。一メートル七十五センチぐらいある大きな男だった。とってもいい男だったよね」。洗濯屋の草分け、山本栄一は懐かしそうに思い出す》とある。
 これは吉川本人ではなく、180センチ近くと長身だった吉郎のことだろう。洗濯業は息子が中心になっていた。吉川の身長は160センチほどで、恰幅は良かったが〃大男〃ではなかった。
 山本栄一によれば、吉川の洗濯屋の名前はチンツラリア「アジア」。大東亜共栄圏にちなんだ命名だろうか。開戦直前の1940年に1年間ほど見習いをし、その後、独立してビラ・マリアーナ区に店を構えていた。
 『プロセッソ』103頁の吉川調書にも《不動産は所有せず、子ども達と一緒に小さな洗濯屋に住む》と書かれている。
 「元中佐」という肩書き以外は、ごく普通の移民だ。とくに財産や技術がある訳ではなかった。でも戦争という状況が「中佐」という肩書に特別な意味を持たせてしまった。(つづく、一部敬称略、深沢正雪記者)