〃吉川精神〃は1944年10月、獄中で書かれた。早田さんに「吉川は獄中の話をしなかったか」と尋ねると「聞いたことない」と答えた。「戦争中に警察に連れていかれた。拷問されたという話は聞かなかった。でも監獄で脳溢血を起こし半身不随になりました。初めはものも言えなかったが、だんだんドモリながらもなんとか言えるようになった」と思い出す。
では「戦中の獄中」では何が起きていたのか。
『戦時下の日本移民の受難』(安良田済編著、11年)の半田知雄日記には、《九十日も独房に入れられて、娑婆へ出て来たときには、見違えるような白髪の老人になった人》(93頁)という記述がある。実は終戦直後の『四十年史』も、その次の『七十年史』にも戦中のことはほぼ書かれていない。いったいどんな体験だったのか…。
そんな「90日で白髪の老人になる」ような獄中体験が《在伯邦人は戦後本国または大東亜共栄圏内に移るべきだ》という結論につながった可能性がある。戦前から唱えられていた馴染み深い論でもあり、終戦直後に移民大衆の共感を呼び、その〃精神〃は一気に広まった。
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勝ち負け抗争の記事には吉川の軍服姿の写真がよく使われる。『百年の水流』(283頁)では吉川が日露戦争で負傷した逸話を紹介した後、《そういう経歴や頭部の傷痕が、当時の移民たちの素朴な心をとらえ、人気を集めた。臣聯は、吉川の軍服姿の写真を、ブロマイドの様に配布した》と書かれている。
この写真には以前から疑問を呈する声があった。「第2次大戦時の軍服と違う」というものだ。調べてみると、三本線に二つ星という階級章は合っているが、38年に大規模な陸軍服制改正が行われ、立襟を廃止し立折襟になった。吉川中佐の写真はあきらかに立襟だ。それに階級章が肩についており、これも改正後には立折襟につける形に変っている。
それに、吉川中佐の写真で特徴的なのは、ポケット(物入れ)に雨蓋(フラップ)がないことだ。調べてみると、これは明治26(1893)年制式で採用された型で、日露戦争当時のものだと分かった。
これだと雨が入りやすく野外戦では不利。明治45(1912)年制式で雨蓋が付けられ、この型の軍服が以後20年以上、1938年まで使用された。つまり、日清・日露戦争前後のごく短い期間だけ採用された型のようだ。
おそらく吉川の写真は移住前に撮影されたものだ。とっくに軍服が変わっているのに「中佐」だと権威づけをするために、臣聯によってばら撒かれた。
後生大事に持って来て、個人的に昔の栄華を偲ぶためにアルバムに残していた。それが日本帝国陸軍とのつながりを証明するような使われ方をしてしまった…。
終戦直後の勝ち組大衆にとって、写真でしかみたことのない吉川は、自分たちを日本に帰国させてくれる救世主的存在に映った。実際には、半身不随で指導するような体力も気力もないが、〃陸軍中佐〃という肩書と日露戦争の傷痕、吉川精神という文書、そして例の写真には、雲の上の存在のように感じさせる神通力があった。
終戦直前にサンパウロ州地方部から始まった臣聯が、広く移民大衆から支持を得るには、そんなシンボルが必要だった。でも、本人はそれをどう思っていたのか…。(つづく、一部敬称略、深沢正雪記者)
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