ブラジルで軍政が始まったとされる4月1日、ブラジリアで軍政開始から51周年を記念して軍政反対などを訴えるデモが行われた。
ブラジルの軍政は、軍人達のクーデターでジョアン・グラール大統領が失脚した1964年4月1日から、ジョゼ・サルネイ氏が大統領に就任した1985年3月15日までとされている。
ブラジリアの三権広場でのデモには、「軍政を再び許すな」「治安維持法を撤廃せよ」「拷問を行った人物を処罰せよ」「貧しい青年や黒人の殺害反対」「民主主義賛成! 軍政反対!」「通信手段の民主化を」などと書かれたプラカードを持った人々が集まり、軍政下で行方不明になったままの人が今も数多くいる事などを伝えるスライド・ショーも行われた。
ブラジルの軍政は、純粋に軍人だけによって始まったものではなく、大農園主やサンパウロ州の工場経営者(産業ブルジョアジー)、当時の人口の35%を占めていた都市に住む中流階級、ならびに、3月19日に「自由のための神の家族の行進」を行った反共産主義のカトリック教会信者達の支援も受けた、市民と軍人によるクーデターによって始まったとされている。
軍人達の蜂起は3月31日とされ、リオデジャネイロのミリタールクラブではこの日に記念集会を開いたが、こちらが軍政を褒め称える要素が強かったのに対し、4月1日のデモは軍政反対の姿勢がより強く出た。
64年のクーデターの背景には、1961年に大統領に就任したがその年に辞任したジャニオ・クアドロス氏の副大統領で、後任大統領として自動昇格するはずだったジョアン・グラール氏が中国を公式訪問していた事で共産党扱いされて昇格できず、議会統治が始まった事などの複雑な要因がある。
ジョアン・グラール氏の自動昇格が阻まれた際に議会との調整役を果たしたのは当時のリオ州知事で、グラール氏の義兄弟のレオネル・デ・モウラ・ブリゾラ氏で、ジョアン・グラール氏は議会統治下のブラジルの国家元首的な立場にたった。
その後、1963年の国民投票で大統領制復活が決まり、ジョアン・グラール氏が大統領に就任したが、この頃は世界的な冷戦や国内で何十年も解決されずに引きずってきた問題が表面化した時期でもある。
その反動は1964年の経済政策の失敗などとも重なり、反共産主義の立場をとる人々が急速に台頭。ジョアン・グラール氏が64年3月13日に民間の石油精製所を国営化し、農地改革のために鉄道や高速道路周辺の農地を接収する事などを宣言した事で、国内の緊張が一気に高まった。
これに輪をかけたのが3月25日に起きたリオ州の金属労組の抗議行動を鎮圧するために派遣された反体制派の海軍兵達が、抗議行動に加担した事件だ。
海軍兵が反体制派に加わった事は軍の規律やヒエラルキーの崩壊を意味し、アメリカ合衆国の支援するカステロ・ブランコ将軍を頭とする軍人が市民達の賛同も得た形で起こしたクーデターで4月1日にジョアン・グラール大統領が失脚。ブラジルは軍政時代に突入した。
軍政移行後の数年は経済が目覚しく回復し、年10%の成長は〃奇跡〃とまで言われたが、その後は言論統制や政治犯の誘拐、逮捕、拷問といったマイナス面が強く表れたため、現在も民主主義を擁護し、軍政反対を唱える声が続いている。(1日付フォトス・プブリカス、ウィキペディアなどより)