吉川は勝ち組から祭り上げられたが、その盟友である脇山甚作バストス産業組合長(陸軍大佐)は逆に認識派から持ち上げられた。
皇紀二千六百(1940)年には全伯産業組合の代表として招聘されて帰朝し、帝都の式典に参加した。でもそれゆえに、開戦後は政治警察(DOPS)からは真っ先に睨まれた。
《ブラジル官憲より、氏が日本陸軍の上層部である事、及び前年帰朝した事実に意外の疑惑を蒙り、一片の呼び出し状と共にサンパウロ市に送られ、戦争終焉まで罪なくして、囹圄の月を眺める(註=獄中生活を送る)不幸な身となった。このため、一家はサンパウロ市に移転を余儀なくされ、収入の途を断たれて、暗澹たる数年を送ったが、終戦二十年の春、やっと令閨(夫人)の哀訴によって釈放されたが、バストスに帰る事は頑として許されなかった。終戦後、思想対立するや、臣道聯盟関係と思われる一派は、脇山氏を先頭に立てて何事かを策したが、彼らと関係すれば再び獄窓行となるので、氏の身辺を気遣う人々によって、一時ミナス州の温泉地に逃避した》(『バストス二五年史』水野正之、55年、「脇山」項)
1945年12月初め頃、「脇山大佐が戦勝を信じているので真相を認識させてほしい」と親友・成富次郎から頼まれた香山六郎は説得を引き受け、自宅を訪れた。その時の様子が『香山六郎回想録』(同刊行委員会、76年)にこう書かれている。
《脇山大佐は戦勝を信じておられた。その原因は原子爆弾より高周波爆弾の猛威力は大きいので原爆は広島の一部や長崎を焦土と化したが、高周波爆弾は犬吠岬沖で米国の攻日艦隊を撃滅させたの宣伝に軍人の単純な頭でこれだこれだ、やっぱり神風、と想うていい気持でおられた》。もちろん高周波爆弾は存在せず、当時コロニアに広まっていたデマだった。
そこで香山は《脇山さん迷って下さるなよ、と成富氏も私も泣いて日本の悲運を語った。脇山大佐もホロ涙を机の上に頬づいてこぼしていた。〃よし、解りました。在伯日本人のためにも日本のためにも死をもって日本の真相を伝えましよう。私の迷いで日本は勝ったとおぼれていました〃と本心を示めされた。成富氏と私は来て話してよかった、もう、脇山大佐から勝った勝ったの言葉は外に洩れぬだろうとよろこんだ。脇山甚作の名を連らねて認識(日本敗戦の)運動のパンフレットが配布されたのはやがてであった…》(同)
香山だけではないだろうが認識派から説得され、〃大佐〃の肩書から終戦勅諭の6署名に入れられた。他人物は元々からのコロニア指導者層だが、勝ち組からすれば脇山は寝返ったように見えた。狙われる危険性は、本人こそが一番分っていたのかも…。46年6月2日、実際にサンパウロ市の自宅で殺された。
『伯謡会の回顧』(84年)で鈴木威は《敗戦になりますと、吉川さんはご年配で、ブラジル語が分からないし、一番肩書があった人だったので、周囲の人、特に強行派の人たちが集まって、先生を右翼団体の会長にまつり上げてしまいました。そして敗戦認識の方々が、これ等右翼の人々に殺傷される結果となり、吉川先生のよい御友達であった脇山大佐(宝生流)までも凶弾にたおれられたのです》(108頁)と書いている。同じ宝生流で軍人、しかも近所に住む脇山と吉川。それが臣聯と認識派それぞれに祭り上げられ、悲劇が生まれた。
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一方、早田さんを残して帰国した一家は東京に戻り、父耕捌は戦中にも『亜細亜人の世界殖民地行脚』(丹頂社、43)、ブラジル移住体験を綴った『南十字星を訪ねて』(北上屋本店、44)を出版し、旺盛な執筆欲を見せた。でも一家は東京大空襲に遭い、命からがら九州に逃げ延びた。(つづく、一部敬称略、深沢正雪記者)
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