日本移民百周年の2008年、平さんの父は、なぜか1949年に消息を絶った自分の兄の存在を初めて語り始めた。息子がその消息を探すと驚くような数奇な物語が浮かび上がってきた。平リカルドさん(58、サンパウロ市生まれ、二世)はその実話をポ語『Assinatura do Preso』(囚人の署名、Editora Daikoku、2012年)として出版した。TVクルツーラのニュース番組編集局長という多忙な要職を務めつつも、家族のルーツへも高い関心を持ち続ける稀有なジャーナリストだ。
平さんは56年にサンパウロ市ブラス区で生まれ、沖縄県系人の多いヴィラ・カロン区ヴィラ・ノーヴァ・マンシェスターの州立学校に通っていた関係で、「教室の中は日系人ばかりだった」と笑う。DCI(産業経済新聞)やエスタード紙の記者を皮切りにグローボTV局、SBT局、レコルジ局、バンデイランテスTV局、スペインTVEを経て現職に就いている。
ブラジル社会から数多くの賛辞を受けた移民百周年は、多くの日系人にとっても心が癒された年だった。「父はその頃から、突然消息を絶った伯父の話を語り始めた。それまで家族はまったく知らない内容だった」と平さんは振り返る。
1931年2月、当時46歳だった祖父ゼンジロウを家長に、一家7人は鹿児島県からサントス港に到着した。5人兄弟の長男が本の主人公ヘイタカ(19)、末っ子が父エイシン(3)だった。
一家はツッパンに入植。ヘイタカは開戦直後の1942年、日本の大政翼賛会への賛同と日本帰国運動を目的に、同士数人と「体制翼賛同志会」を創立した。これが社会政治警察(DOPS)に知られ、「国家治安罪(Lei de Segurança Nacional)」が適用されて同年に収監され、49年に恩赦で釈放されるまで実に7年間も獄中生活を続けた。
コロニア指導者の多くが戦中に収監されたが1年前後で釈放され、終戦直後の臣道聯盟関係者でも暗殺実行犯以外はみな2、3年で釈放された。7年間も監獄生活を続けた例は珍しい。49年に釈放された後、なぜか家族の元に帰らず、ひとり消息を絶った。
「父の話では、伯父は以前から『日本に帰りたい』と繰り返していたため、釈放後にこっそり帰国したと家族は思っていたようです」。平さんが事実を確認するためにサンパウロ州立公文書館でDOPS文書を調べると、伯父の調書が存在した。「調書の写真で、初めて伯父を見ました」。さらに親戚を尋ねてその消息を調べるうちに、驚くべきことが分かった。
「釈放後、リオに移り住んで黒人女性と結婚し、子どもをたくさん作っていました。まったく予期せず、突然、多数の親戚が増えました、しかもカリオッカ」と振り返る。「収監中に監獄島イーリャ・グランデにも送られた。その時に黒人の収監者と知り合い、釈放後に彼を訪ねていって、その娘と結婚したようです」。
リオでは日本で身につけた空手をスポーツ・クラブ「バスコ・ダ・ガマ」で熱心に教えて生計を立て、多くの生徒を育て上げ、自らの道場まで設立した成功者になっていたという。
「なぜ彼は日本に帰国しなかったと思うか?」と質問すると、「結婚したことで、新しい人生の展望が開け、日本に向いていた気持ちが一気にブラジル社会に向かい合うようになったのではないか」と伯父の心のうちを推測した。
【大耳小耳関連コラム】
兄の消息が途絶えて60年が過ぎ、80歳になった平さんの父は08年に突然、その兄の話を息子にするようになった。移民百周年という年は、多くの日系家庭にとっても節目だったようだ。平さんが幾ら調べても「釈放後、なぜ家族に連絡を取らなかったのか?」は謎のまま。異国で獄中生活を送ったものだけが知る、家族に顔を合わせたくない男心、移民心理がそこにはあるのだろうか――。平さんの好意でポ語の著書『Assinatura do Preso』を、編集部まで取りに来られる希望者5人に先着順でプレゼントする。