「本が大好きなので、フェルナンド・モライスの『汚れた心』(Coracoes Sujos)を読んでいたら、曽祖父と祖父の名前をリストに見つけて、それは驚いた。だって、家族は誰もそんなこと教えてくれなかったから」。フェルナンダさんは、二人が臣道連盟のメンバーと知った時の驚きをそう振り返る。
「曽祖父は182センチと背が高く、すごく生真面目な人だった。おじは、祖父がアンシエッタ島で書いていた日記を保管しているけど、絶対人に見せようとしないし、誰もそのことについては話してくれない。思想の自由はとても大事だけど、まさか日本は負けちゃいないと思っていたなんて」と今も信じられないといった様子で語る。
取材後、『O Processo da Shindo Remmei』(エルクラノ・ネーヴェス、1960年、272頁)で政治社会警察の調書を確認したところ、利三郎さんと利太さんの名前が確認できた。共にルセリア在住で、利三郎さんが「日本は戦争に勝った」と信じ、「日本人はみな保守的であるべき」と考えていたことがわずか4行記されている。息子の利太さんにいたっては「父と同じ」と書かれているのみ。
その時の経験が、利太さんをしてポ語のみで孫と接するような気持ちにさせ、家族の中で曽祖父が臣連メンバーだったことを秘密にさせる雰囲気を生んだようだが、詳細は謎のままだ。
フェルナンダさんは、自身が生まれる前の高井家の古写真も、「説明書きは読めないけど」と大切に保管している。いつか家族の秘話が紐解ける日を待ちつつ。
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自身の中の日本的な部分について尋ねると、「まわり皆が私のことを『ブラジル人というより日本人だ』っていう。時間も守るし、『やる』と言ったらやるし、真面目だから」と少し誇らしげに答える。
弟のラファエルさんは東京大学大学院を卒業し、その後4年間、富士通で働いた。「東大留学が決まった時、祖父母はとても喜んだ」という。日本語が達者で、今はクリチーバの日産に勤務する。
弟が滞日していた2005年に初めて日本を訪れた。「すごく良かった」と語る一方で、「日系人なのに日本語が話せなくて恥ずかしかった。小さい頃に日本語を勉強しておけばよかった」との後悔も感じた。「日本語を学ぶ」と決意して帰伯すると、すぐに地元の文協の日語講座を受講。今もインターネット上の教材を使って学習を続けている。
そんな彼女のバンド「パット・フー」のレパートリーには、日本語の曲もある。日本が敗戦を乗り越え、高品質な商品で世界を席巻する様子を描いた「Made in Japan」という曲は、国外でも親しまれるヒット曲の一つになった。
アルバムの表紙にも、日本の写真家の作品をアレンジして使うなど、日本的要素を散りばめている。そのことがパット・フーの独自性の一部を形成しているようだ。
日本文化への純粋な関心、先祖の故郷への憧れ―。たとえ日本語ができなくても、ある程度の日本人的な特質は知らず知らずの内に継承されるようだ。
その後も3度訪日し、東京、名古屋、浜松、豊橋などブラジル人集住地区を中心にライブを実施。彼女が敬愛する日本の人気バンド「ピチカート・ファイヴ」の3代目ボーカル野宮真貴さんとも交流が始まり、09年にはアルバム『Maki Takai no Jetlag』も共作した。
08年の移民百周年ではアニェンビー会議場での記念週間のトリを飾るコンサートもやった。現在も在聖総領事館の依頼に応え、日ブラジル交樹立120周年を記念した曲を二人で制作中だ。
母親譲りの西洋的な顔に満面の笑みを浮かべると「年末までには発表できそう」と意気込んだ。(終わり、児島阿佐美記者)