先任の大岩康信がパウリスタ大通りにある、良く言えば二十五階建てのビジネスビル、悪く言えば雑居ビルに間借りするブラジル支社から失踪してから、既に一年近い時間が経過していた。
小峰は、その大岩という先任者の事を当然よく知っている。日本本社の輸出センターで、一時彼と同じ課に勤務していた事があったからだ。大岩は三十歳の後半に課長に昇格して、四〇歳になるとブラジル支社長に就任していた。入社が同期でありながら、小峰の方は昇格が彼よりも僅かに遅れていたが、結局大岩が謎の失踪をしてから、その南米事務所に転勤する事になってしまった。
南米での勤務に関わらず、国外の支社勤務者が輸出部から派遣されるのは、小峰の働く会社の常であったので、いつかは自分にもそのお鉢が回って来るとは考えていたが、友人とも言える前任者が失踪した後に、それをカバーするために自分が急遽派遣される事になった事に、小峰は何か因縁めいたものを感じていた。
とは言え、就任してからのこの一年間に、ブラジルにも慣れたし、南米の情勢も時間と共に何とか理解出来始めていた。しかし、失踪した大岩に関しては、全く手がかりがなかった。
当初から、総領事館に相談して地元の警察に捜査を依頼していたが、なんの情報も得られなかった。社内の従業員から聞いた話を何度まとめて見ても、大岩は勤務の途中に不意に蒸発してしまったのだとしか考えられなかった。
そんなある日、小峰は昼食のために外に出た。自分でも気づかない内に、あまり言葉の不自由を感じなくて済む、ある日本料理店の馴染み客の一人になっていたのだった。
食事を終わると、女房の和子のための誕生日のプレゼントを捜すのに、近くの店でウインドーを覗いていた。その時彼は、ウインドーのガラスに写った通りの反対側を、今しがた大岩らしい男の姿が通り過ぎたと思ったのだった。
失踪したはずの彼が、こんな所を歩いているのはまったく奇妙としかいいようのない事だった。見間違いだと思いながらも振り向いた時には、その大岩らしい人物が一人の日系女性と肩を寄せ合うようにしながら、パウリスタ大通りの方角に向かっているところだった。彼はその後を追った。何度も声をかけようと思って、二人の背中に近づいた。
しかし、人違いかもしれないという自分の躊躇を押し殺すように、小峰が最後に試みようとした行動をまるで無視するかのように、二人がタクシーの中に入ってどこかに行ってしまう方が早かった。しかし、二人がタクシーに乗る前に交わしていた言葉を、その時小峰ははっきりと聞いていたのだった。それは「ナミちゃん、早行こうな」という、小峰がよく知っている大岩の大阪弁だったのだ。
それから、一年以上が過ぎていた。それっきり、大岩が自分の前に現われる事もなかったし、警察からも何の情報も無かった。自分が見た大岩の姿は幻であったかもしれないと、考える日が多くなった。
確かに大阪弁を自分の耳で聞いたし、奈美という、大岩と彼が共に贔屓にしていた大阪の飲み屋の、ママの名前も自分の耳で聞いていた。しかし、それが全て幻覚だったという可能性も否定出来なかった。自分が今いる所は、南米ブラジルのサンパウロという大都会の、しかも大ビジネス街のど真中だった。
◎
それからしばらくたったある日、彼は事務所のあるビルの最上階まで行ってみようと急に思いたっていた。なんとなく、あまり行った事のない最上階から、下界の景色を見るのも、決して悪い事では無いと思ったからだ。
エレベータのドアが開くと、そこは廊下だった。前に来た時と、どこか様子が変わっているような気持ちがした。薄暗いその廊下の奥にあったはずの弁護士事務所が見つからなかった。そのまま、その廊下を左に曲がると、その奥に日本語で書かれた飲み屋らしい看板が見えた。よく見れば、それは「スナック 奈美」の看板だった。大阪の〈スナック ナミ〉……、彼は立ち尽くんだまま、ただ呆然としていた。そして、スナックのドアから、あの大岩とナミの二人が現われ、廊下で彼らとすれ違がった瞬間に、ナミというママが、大岩のブラジル転勤を苦にして睡眠薬自殺したという噂を、以前に聞いていた事を思い出していたのだった。
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