ホーム | 連載 | 2015年 | 第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ | 第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ=第1回=苦々しい記憶―Oクルス事件=暴徒と化したブラジル人が襲う悪夢
「日本人を縛って馬で街路を引きずる暴徒がオズワルド・クルスの町を占拠」と報じる1946年8月3日付ジアリオ・ダ・ノイチ紙
「日本人を縛って馬で街路を引きずる暴徒がオズワルド・クルスの町を占拠」と報じる1946年8月3日付ジアリオ・ダ・ノイチ紙

第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ=第1回=苦々しい記憶―Oクルス事件=暴徒と化したブラジル人が襲う悪夢

 第42回県連ふるさと巡り一行154人はバス4台に分乗し、3月27日から4泊5日で、最初に奥パウリスタ延長線のオズワルド・クルス、ドラセーナ、ジュンケイロポリスという訪れる機会の少ない、主に戦後に開拓された町々を回って、最後に開通百周年を昨年祝ったばかりの伝統あるノロエステ線のリンスを訪ね、今回も地元日系人との貴重な交流を繰り返した。「戦後から百周年の地へ」――時計の針をグーッと急に逆戻りさせるような旅になった。

アントニオさん(左)と宗高古堅オズワルド・クルス文協名誉会長

アントニオさん(左)と宗高古堅オズワルド・クルス文協名誉会長

 サンパウロ市から西北に570キロ、最初の地点オズワルド・クルス市(人口約3万人、1941年創立)は日本移民史だけでなくブラジル史においても稀な、苦々しい記憶が刻まれた地だ。
 勝ち負け抗争の中でも最も異色の事件、一般ブラジル人を大規模に巻き込んだという意味では、唯一と言っていい「オズワルド・クルス事件」が起きたからだ。
 1946年7月30日夜、日系二世がブラジル人と口論になって刺殺してしまい、《翌朝、非日系の住民たちが、昨夜の事件を話題にして興奮していた。ところが、そこへ来た臣道聯盟員が、何か刺激的なことを口にしたために、これを聞いた住民が暴れだした。その数がドンドン増えて行き、彼らは日本人を次々に襲い始め、暴徒化した。暴動はツッパンから軍隊が出動するほどとなった――》(『百年の水流』改訂版、外山脩、12年、296頁)。
 『コロニア戦後十年史』(パ紙、1956年、14頁)には《(同30日午前)八時半には千五百人ぐらいのブラジル人が暴れ出し、或は馬で邦人を追いかける者、撲る蹴るとなり、肋骨を折られるもの、フラドール(千枚通し)で胸を突かれるものありてその被害は一時想像もできない程であった》とも記述されている。
 しかし《騒ぎがあり、一人が死亡、兵隊が出動したことは事実だが、資料類に書かれているような暴動はなかった》という証言も『百年の水流』(297頁)には紹介されており、暴動があったか無かったの意見が分かれる状態のようだ。
 今回、現地で故郷巡り一行を取材しに、ジョルナル・デ・オズワルド・クルス紙のアントニオ・シジネイ・マギノニ(72)記者が来ていた。彼と雑談する中で、興味深い体験談が聞けた。
 事件当時、彼はまだ3歳だったが、鮮明に覚えているという。「祖父がイタリア移民で農業をしていたから、両親は農場で日本移民一家族を雇っていた。町では日本人を見つけては殴る蹴る引きずるという暴動が起きていたのを、祖父が聞き、日本人家族を守ると決断した。誰も裏庭に行かないよう、僕が見張り番みたいなことを祖父から命じ、一カ月以上、こっそりと食べ物を運んだりしたんだ」と証言した。(つづく、深沢正雪記者)