マギノニ記者はさらに「あの時、町では日本人を探し回って殴る蹴る引きずると酷いことをしたと、大きくなってから聞いた。祖父の判断を誇らしく思う、彼は正しかった。たった一人の日本人の罪を、他の日本人全員に償わせるようなことをしたのは明らかな間違い。あのようなことが起きたことを思い出すたびに恥ずかしくなる。我々全ての市民にとっての歴史の恥部だ」と吐き捨てる様に言った。
日本人を責めたブラジル人もいれば、友として守った者もいた。一行の現地交流会ではこの件には触れる話はなかったが、もっと踏み込んでもよい逸話だろう。
県連故郷巡りが今回、最初に回った奥パウリスタ地域は、サンパウロ州奥地としては最も後発の〃新開地〃といえる。
サンパウロ州の開拓は鉄道と共に進んだ。1867年にサントス―ジュンジャイー鉄道が開通したのが最初で、同じ19世紀後半からソロカバナ線、中央線、パウリスタ線の工事が始まった。ノロエステ線は1905年に着工し、日本移民が到着した1908年にはアラサツーバまで開通。ソロカバナ線やノロエステ線が戦前に全線開通したのに対し、パ延長線は29年にマリリアまで、その後41年6月にようやくツッパン駅まで進んだのみだった。
開発が遅れたため、戦後にパ延長線の手前やノロエステ線などから移り住む開拓最前線となった。
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3月27日午前9時、サンパウロ市リベルダーデ広場をバス4台に分乗した県連故郷巡り154人は、パウリスタ線のオズワルド・クルス市に午後6時半に到着していた。
同地の日伯文化協会の乃美パウロ会長(71、二世)らに出迎えられ、立派な会館に通された。会長はポンペイア生まれで、50年に同地に転住し、以来住み続けている。会員は135家族で、「だんだん減っている」という。「あの頃は野球が盛んで、50年代には全伯大会で優勝したんですよ」と懐かしそうにいう。
斎藤修三副会長(75、兵庫)は兵庫県人会の監査もしており、同地に74年から住む数少ない一世の一人だ。「最初はみなカフェを植えて景気が良かった。でも1975年に大霜でやられて、それからカンナ(サトウキビ)、パスト(牧場)ですよ。90年代からデカセギブームで人が減ってしまった」と振りかえった。
交流会では、会長時代の05年にこの新会館を建設した宗高古堅名誉会長からも歓迎の挨拶があり、一行からは団長の本橋幹久県連会長が「パウリスタ線の移住地で生まれ育った者にとっては、まさにこの辺は故郷。所縁の深い場所を訪ねられて嬉しい」と応えた。
続いて、同地西本願寺の門徒総代の水谷豊美さんがお寺の方には470柱の御霊が祀られていると紹介し、梶原俊栄マリオ主管が正信偈をあげる中、一行は順繰りに焼香の列に並んだ。(つづく、深沢正雪記者)
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パウリスタ延長線は手前から奥に向かって、日系団体のある主な地名を挙げるとマリリア、ポンペイア、ツッパン、バストス、オズワルド・クルス、ルセリア、アダマンチーナ、フロリダ・パウリスタ、パカエンブー、ジュンケイロポリス、ドラセーナ、最後がトゥッピー・パウリスタで、パラナ河を越えたらその先はもうパラナ州だ。「主だった日系集団地はすでにほとんど訪ねた」といわれていた県連故郷巡りだが、実は奥パ地域は今回初めてだったとか。「まだ来てない。うちにも」という要望がある日系団体は、県連に連絡してみては?
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