ホーム | 連載 | 2015年 | 第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ | 第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ=第4回=ジュンケイロポリス=戦後の原始林開拓の現場=今は2時間、当時は3日3晩

第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ=第4回=ジュンケイロポリス=戦後の原始林開拓の現場=今は2時間、当時は3日3晩

 川崎千恵子さん(78、二世)は、「50年から原始林の開拓ができるようになって、52、3年に大挙して入植した。一番多い頃には500家族ぐらい居たのよ。田舎に住んで農業やっているのは、ほとんど日本人だった。みんなヤマを開拓してカフェを植えた。資金のある人はカフェ精製場を作ったわ。ガイジンが2軒、日本人が3軒という時代もあった。今は無くなってしまった」。
 「でも今はみんなパストね。70年代には土地が痩せてしまって、カンナやアセロラ、ウーバも作っているわよ。田舎の方はみんな日本人が開拓して、土地が痩せるとブラジル人に売って、自分は市街地に出た。その土地は牧場になった」。
 「そうやって田舎の日本人はどんどん減って、今じゃ2、3家族じゃないかしら。150家族ぐらいこの町にいるけど、大半は市街地に住んでいるわ」
 J文協のシブヤ・ジュリア・タカコさん(二世、マリリア出身)は、「3年前に図書館を作った」と記者を案内した。普通は日本語図書かと思ったら、ポ語と英語だった。「市の図書館もあるけど古い本ばかり。ここは私や会長がポケットマネーで新しい本をどんどん補充しているから、みんな喜んで借りにくる」という。毎日、貸し出し事務のために図書館で通っているという。
 交流会で本橋団長は「参加者の多くの者、二世にとって日本は故郷ではない。入植地こそが故郷、そこを巡るツアーです。だから多くの参加者がある」と紹介した。
 「私は3歳半で日本から来て、68年間ここに住んでいる。ここが私の故郷です」――1947年にここへ入植した生き字引・荒牧謙一さん(84、福岡)がマイクを持ち、そう自己紹介し、町の歴史を説明し始めた。70年代に文協会長も2期4年間務めた重鎮だ。
 母ちとせの伯父が福岡県の海外移住部長をしていた関係もあり、1934年にアフリカ丸で渡伯した。
 「最初はカフェランジアに入って、マリリアとリンスの中間のボンダーデからここへ来た。当時、鉄道はまだ通っていなかったから3日3晩かかった。今ならマリリアから車で2時間。1944~50年の間、この辺だけがサンパウロ州最後の未開拓地と言われた。入植当時、板張りの家40、50軒、レンガの家数軒しかなかった」」と語り始めると、一行からどよめき声があがった。
 「親父(荒牧一郎)はマリリア周辺では負け組の大将の一人と思われていた。親父の弟はカフェランジアで勝ち組強硬派として有名だった。ある時、近くのファゼンダのグアルダ(護衛)から『最近、お前の農場の周りを見慣れない奴らがうろついている』と聞かされ、親父は引っ越しを決意したのかもしれない。新しい物好きで、この町で最初にラジオやテレビを買ったのも親父だった。ブラジル靖国講のジュンケイロポリス代表もやっていた」という。(つづく、深沢正雪記者)