『一粒の米もし死なずば』の著者・深沢さんから取材の手伝いを頼まれ、何度か案内させてもらった。それがこれほど多くの文献をもとに、国の為政者の時代の移り変わりへの対応と、一方で国策にのった移住者の現地の生き様を時代ごとに対比させた書になるとは夢にも思わなかった。一読し、驚くと同時に、これまで第三者による旧イグアッペ植民地の歴史が書かれていなかったので、大変貴重な記録とありがたく思っている。
「海興からもらった米で握り飯をつくって、毎日原生林に畑を作るために木を伐りに通ってね。昼になって包みを開き握り飯を出して食べようとすると、あっという間に蚊が群がってきて、握り飯が真っ黒になったもんだよ。始めのうちはふーふーと蚊を追っ払って食ったもんだが、しまいにゃめんどくさくなって蚊も一緒に食ったもんだ。家?ジサーラを縦に割って囲いと床、屋根はジサーラの葉っぱで作ったのが日本から来て最初に建てた家」と長野県出身で三百二号地区に入植した島田よし(1895年生、当時六十一歳)さんからこの思い出話を聞いて既に五十年あまりになる。
サンパウロ第一回養蚕移民として親に連れられ、同じ養蚕移民十一家族と一緒にレジストロに入り、当時二十歳で日本から来て七年しかたっていなかった私はただ(へーー)と驚いただけであったが、今も覚えているということは強烈な印象であったことは確か。
この話を最近の若者にして聞かせると、一様に顔をしかめ嫌悪感を露わにして私がその握り飯を食べたわけでもないのに気持ち悪そうに私の顔を覗き見る。
数年前、二十代の三世の娘さんが聖公会教会を見たいというのでブラジル人の娘さんも連れて案内した時。レジストロの町から20キロ近く離れた場所に位置し、行く途中もそうであったが、すぐ近くには一軒の入植者の家があるだけで、あたりはこの地方特有のお椀を伏せたような小高い山が目の前に迫り、その山も長い間放置されているので、樹木が生い茂り初期移民が入植した当時に戻りつつあるかのような印象を受け、いつもの事であるがあたりはシンと静まり物音ひとつしない。
フト、思いついて教会を珍しそうに見まわっている三世の娘さんに「もし、あなたがご主人に連れられて来てここに住むことになったら、一番初めに何をする?」と尋ねたところ、あたりを見回した娘さんたった一言「泣きます」続けて「もう帰りましょう」。
手元にある海外興業株式会社が作成したレジストロ植民地地図をざっと見たところ、現在まで入植当時のまま住み着いている家族は20戸に満たない。また、入植90周年に作成された日系家族の電話帳に記載されている家族数は1300戸余りであるが農村部の電話は50に満たない。大部分の日系家族は市街地を生活基盤としている現状が良くわかる。
入植当時から地質、地形、気候、地理的条件に恵まれていたとは言えないこの地で入植者たちはそれでもこの地に根を生やすべく様々な作物栽培し今日の基礎を築きあげた。
「一粒の米」がレジストロ植民地という「苗床」に播かれ、そこで育った「米」は今ではレジストロを中心としたブラジルという「本畑」に根をおろしたとの見方をするなら、植民地としての役目を終え前述した現在の自然に還りつつあるのを眼のあたりにする風景は好ましいものと映る。
元首相吉田茂が「大磯清談」で「政府がいい、悪いは別として、問題は、国民がいい、悪いということじゃないのか。国民が良ければ、政府が少しくらい悪くても、いいのだよ。逆にだよ、国民が悪ければ、政府が少しくらい良くても何にもなりはしない」
この本を読んで真っ先に思い出したのがこの吉田茂の言葉だった。
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