会場で最長老の古川正さん(ただし、97、北海道)はジュンケイロポリスに20年住む。1933年に渡伯し、「弓場(勇)さんが岩谷鶏を入れた頃、バストスでビッショ・デ・セーダ(養蚕)をやっていた」という。堀江・古川・マチウデさん(58、二世)は「父はアルバレス・マッシャードに住んでいたが、資金を貯めてここに土地を買った。それから60年以上、家族は住んでいるはず」という。
この町出身で、ここの市衛生局長、アダマンチーナ市衛生局長を歴任したシハラ・ジョルジさん(二世)は「故郷巡り一行を迎えるために何度も会議をした。こんなことでもないと、なかなか皆集まらないから良い機会になった。このようなルーツ意識を、我々は失ってはいけない」と力を込めた。
荒牧さんによれば、ジュンケイロポリスのバスターミナル近くに移民百周年を記念して鳥居のある日本公園が作られた。「かつて12植民地あったことを顕彰して、公園には日ポ両語でその名前が刻まれている。鳥居は公園を代表するモニュメント、ブラジル人から見て日本人に信用がある証拠。だってドイツ系やイタリア系には、全伯あちこちある鳥居のようなモニュメントはないでしょ」。
会館の台所にいた同地の小座間貞夫さん(72、二世)は「1992年にデカセギにいって、東京の順天堂大学病院で掃除夫とかをしていた。ある時、突然、救急車でたくさんの急患が次から次へと運ばれて来てびっくりした。オウム真理教の地下鉄サリンガス事件だった。あの時はビックリしね」と思い出す。計8年間デカセギした。
「日本の前はツッパンに30年住んでいたが、日本から返ってからはブドウ畑をやりたくてね、ここが良いって聞いてやって来て、もう15年ぐらいになる」と振りかえる。ニアガラ種を9ヘクタールほど生産しているという。
その隣にいた織田孝幸さん(たかゆき、68、二世)も訪日組だ。「神戸生糸に20年間務めた。ジュンケイロポリスにその支店があったから78年に来た。1994年の阪神大震災の時、駐在員が一生懸命、本社に電話しても、なかなかつながらなくて困っていたな」と思い出す。
最後に全員で「ふるさと」を合唱して交流会は幕を閉じた。一行の阪田祐治さん(62、二世)は「荒牧さんの話が素晴らしかった。移民人生を感じたな。こんな田舎にあんな立派な会館作ったのはすごい。裸一貫から出発して家族を作り、子供を育て、会館を建てるのが移民の人生」と頷いた。(つづく、深沢正雪記者)
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アダマンチーナ在住のシハラ・ジョルジさんだが情報がとても早く、3月末当時で、「福嶌総領事が日本に帰国されると聞いて、とても残念。あんなに地方をまわった人はいない。総領事館との心理的な距離が一気に縮まった気がした。この地域の団体も草の根資金で助けてくれて本当に有難いと思っている」と感謝し、残念がっていた。これだけ地方から注目される総領事も珍しい?!
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