3月28日夜にはドラセネンセ文化体育協会(ADEC)の会館での交流会に参加した。ドラセーナ市(人口4万5千人)創立が1945年12月で、同会創立は1948年9月だから、町の歴史と同じくらい古い。敷地面積は約1万平米、旧会館は1987年に建てられ、現在の新会館は2007年に改築されたという。建築面積1千平米ほどもありそうな大きな建物だ。
入口ではシオダ・セルジオ会長(56、二世)らに出迎えられた。シオダ会長によれば「会員は200家族だが、市内には500ぐらいの日系家族が住んでいる」という。日本語学校がまだ続けられ、和太鼓、カラオケ、ゲートボール、婦人会や日本舞踊も行われているという。
最大のイベントは9月の「IminFest」(移民祭り)で4千人もの来場者があるという。
敷地内の日本庭園にいた地元の平井エリオさん(84、二世)に話を聞くとノロエステ線出身だった。「父は第1アリアンサで大工をしていて、僕はそこで生まれた。1950年にドラセーナに来て、木工所を始め、以来ずっとここで暮らしている。農業をしたことないんだ」と笑った。
井沢幸雄さん(76、二世、明老会会長)はパウリスタ線ベラクルス生まれ。オズワルド・クルスとルッセリアの間にあるイヌビオ・パウリスタから、1949年にここへ移った。
「最初は泥道だけ、この辺はみんなマット(原始林)だった。木を切り倒し、トッコ(切り株)をエンシャドン(鍬)で引っこ抜いた。1950年頃、日系は100家族もいなかった。ここは新しい町だから、オズワルド・クルスのように勝ち負け問題はなかった。ツッパンまでは酷かったがここはないね」と思い出す。
「農業を続けるために土地の新しいところに移ってきた。60年間、農業一筋だ。最初はカフェ、ミカン、バナナ、アバカシもやった。カフェは霜でダメになり、ミカンは病気が出て政府に引き抜かれた。今は野菜やセボーラも減り、息子たちはパスト(牧場)をやっているよ」。
交流会ではシオダ会長は「できるだけの熱い歓迎を考えた。皆さんの人生の経験を共有したい」と歓迎し、一行の本橋団長は「パウリスタ沿線では一番大きな会館と聞いた。たしかに立派なもの、今まで故郷巡りが来なかったのが不思議だ」と語った。司会をする文化理事の岡本秀樹さん(76、二世、元会長)の娘オカモト・ヨウコ・マリさんが書いた心理学論文『Imigração Japonesa Rupturas e Reconstrução de Vínculos Afetivos(ブラジル日本移民における心の絆の再生と評価』(Arte & Ciência Editora、08年)が、本橋団長に贈呈された。
岡本さんが乾杯の音頭をとり、一行は婦人部が作った夕食に列を作った。清心太鼓の迫力ある演奏が始まると、一行はあっけにとられたように聞き入った。(つづく、深沢正雪記者)
ホーム | 連載 | 2015年 | 第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ | 第42回県連故郷巡り=時を遡る―奥パからノロ線へ=第7回=ドラセーナ=「パ線沿線で一番の会館」=ド迫力の清心太鼓の演奏
タグ:写真ニュース