私の胸の中で息絶えた黒田上等兵の血ぬられた小石が上衣のポケットにある……。私は無意識に、その小さい石魂を撫でていた。そのとき、不意に、洞窟に埋れた同僚たち、それから不十分な看護の下で死んでいった三百名にちかい患者たちの思い出が一度に甦った。(このままでは、ブラジルへは帰れない……)私は自分に言い聞かせ、自らの心を確かめようとした。日本兵として、自分も戦ったのだ……。幾百もの兵の魂が、望郷に胸を焦しながら、この島に漂い続けるだろう。
「特別のお計らいを願います」
もう一度、エリカが叫ぶように云った。
今度は一同の眼が私に注がれた。
暫く考えを纏める様子を見せていた左官が静かに口を開いた。
「……日本占領軍は、日本人の海外復帰を少なくとも二十年は禁止する意向をもっているが、君の場合、全く不可能というのではない」
(二十年も禁足されるのか……)何者にも向けられぬ憤りが胸を満たし、私は言葉もなく俯向いていた。
「……ご好意、感謝します。……私は、日本兵として、日本へ帰るのが至当とおもいます」
私は明るい期待を自ら打ち砕いた。〈これで、いいのだ……〉もう一度、揺れる心を確かめようとしたが、今、その余裕はなかった。エリカの表情に失望の色が走るのが見えた。
〈これで、いい……〉私は、もう一度、胸の奥で自分に云いきかせた。
私はボートに乗り移ってからも、二十年という時の重みを測っていた。絶望的な時の長さだった。
◎
いつか夕陽が赤く海面を染めていた。振り返えるとデッキに姉妹の姿が見えた。エリカとアンナが何か叫んだようだったが聞きとれなかった。
二人の姿が次第に小さくなり、やがて見えなくなった。
4
エリカとアンナに別れたあと、私を襲ったのは言いようのない虚脱感だった。その中に微かな悲哀感があった。私は思考力も体力も、一切の活力を奪われた夢遊病者になり果ててしまっていた。〈あと、二十年……〉その時の重みも重くのしかかっていた。
副官、庶務科長、電信隊長の三人も、誰も口を開かず頂垂れ、黙々と気だるく一列になって足を引き摺るように傾斜を登っていた。米軍将校団から予想外に丁重な扱いを受けたことによって三人も平衡感覚を失ってしまったのだろうか。
私の前を行く粟野中尉が時折りよろめいた。中尉が二人の捕虜を米軍に引き渡すまで、二人の上官と闘ってきた心労は並み大抵のことではなく、私の推測を絶するものだろう。
生命を賭けていたかも知れない。その安堵感から急に老い込んでしまったのだろうか。〈粟野中尉、頑張って下さい。ご苦労をおかけしました〉私は彼の背に心の中で手を合わせた。
師団入口の随道の前に来たとき、粟野中尉は立ち停って二人の上官に挙手の礼をした。
「本日は、ご苦労様でありました。それでは、ここで……」
そういう中尉を副官が呼びとめた。
「お互い、万事、終わったんだ。みんなで、これから慰労会といこうじゃないか」