楽しそうに、溌剌と叩く清心太鼓の若者たちのエネルギーが会場に充満し、曲によって客席から大きな拍手や手拍子が混じった。
ドラセネンセ文化体育協会の和太鼓リーダーの宮口ケンジさん(25、三世)によれば、7~16歳までの四世の若者が中心。「4年3カ月前から太鼓部が始まった。日本帰りのメンバーを中心に38人が毎週2回、2時間半ずつ練習を重ねている。大会前にはさらに週末の5時間練習が加わる。笛を使うのが特徴で、オリジナル曲もある。最初は人数が少なかったが、今はどんどん増えている」という。
太鼓奏者の一人、トミヨシ・ルーカスさん(15、四世)は、「創立時から和太鼓に参加している。新しい友達と知り合いになれるから楽しい。僕は一回も日本に行ったことないけど、日本帰りが多いのは確か。僕は昔、チミド(内気)だとよく言われたけど、最近は変わった」とはきはき答えた。
やはり太鼓奏者の井沢グスターボさん(15、四世)は、「日本で生まれて、4歳までいた。ジッチャンにやってみろと言われ、4年2カ月前から参加している。太鼓を初めて、勤勉になったと言われる」という。
広報の岡本晴恵さん(70、二世)は「娘がデカセギ帰りの子供たちのことを心配し、彼らを文協に呼んで太鼓を一緒にやったら、溶け込めるんじゃないかってアイデアを出した。今では文協若返りの一番の柱ですよ」とほほ笑んだ。
元会長の仲里パウロ幸善さん(66、二世)は聖南西のカッポン・ボニート生まれで、マリリアの医科大学を卒業した後、当時、医者が少なかったドラセーナにやってきた。「父が1932年に移住し、カッポン・ボニートに入ったがうまくいかず、プレジデンテ・プルデンテに移った。僕だけマリリアで勉強し、ここへ来た。この町には今でも医者は90人だけ、日系は4、5人だけ」。
「僕らが子供の頃、学校でジャポネースは軽蔑され、イジメられた。女の子だと、親から日本人とは付き合うなと言われた時代だ。家ではウチナーグチ(沖縄方言)をしゃべっていたので、ポルトガル語は学校に行ってからで最初とても難しかった。僕らはウチナーグチ、日本語、ポルトガル語と三つも覚えないといけなかった。そんな言葉の問題もあった」と幼少期を振り返った。
「ブラジル人は当時『日本人は好かん』と言っていた。でも大学を出れば、社会からの見方が変わる。今では多くの日系人は大学卒だから、そんな印象もなくなった」。(つづく、深沢正雪記者)