モンテ・カルメロ 興梠 太平
知人より送って来たる自分史にそんな歳かと気づいたあの日
八十まで生かされて来て六人の孫もすこやか感謝の気持
久しぶり畳・布団に横たわりしみじみ思う昔の事を
仏前に理解出来ずも唱うれば般若心経はささえとなりぬ
皇后の御歌(みうた)を拝し言の葉の奥床しさに魅了されたり
「評」この五首の作品もまた唱うるに、安らぎを感じる。高翔な浪漫の青年は日向の高千穂から。この国の高原に着地して五十数年の今、心のささえとなる物を求めて、孫等の生育に感謝している。帰化ブラジル人。
サンパウロ 武地 志津
烈風にテラスのタイル六・七枚一瞬にして剥がれ散らばる
とんとんと不意に物打つ音のしてカーテン引けば職人其処に
外壁を綱で下り来し彼なるか黙々作業に励み居るなり
いつしかにタイルを叩く音の止みテラスに彼の姿も見えず
手際よくタイル張り替え散らかりしテラスもすっきり片付けてあり
「評」一編の詩とも短編とも言える広ろがりを感じる。一連寄り掛りがなく、一首が独立した作品でありながら全体を構成している。
グワルーリョス 長井エミ子
手に余る頭髪今は淋しけれ外出のたび櫛で整う
何嘆く耳かきほどの老病い真澄の空は五月一日
老犬の下敷なりしタンポポの花哀れみて拳もて子は
るり色の過熟のざくろ落つる音ひそりなりしや秋めく夕べ
洗濯機回したくないそんな日の秋深沈と深まりて行く
「評」なんとも旨い作品、特に三、四、五、『下敷きなりしタンポポの花』『るり色の過熟のざくろ』『秋深沈と』一首全体を整えるに充分な気がする。
サンパウロ 相部 聖花
故郷(こきょう)よりのつくしの写真見つむればまぶたに広がるふるさとの野辺
五月花水不足にて赤らみし茎の先にははや蕾持つ
秋なれやもくせいの花匂い立ちひそやかにして秋をことほぐ
イッペーの花の寿命の短かくて散り敷く花を惜しみつつ見る
よきニュース網には乗らず日にちに汚職・暴力この広き国に
「評」亡びののちの結実。流転、流動、生成、化育する実相を草花の命に見つめる作者。この広き国の網の目には繊細なものなど掛りそうもない。
サンジョゼドスピンニャイス 梶田 きよ
過ぎ去りしいやな想い出いつまでも忘れず語る文化人達
文春を読みいて又も目につきぬ不快な言葉慰安婦問題
文春の随筆読みいて目につきし日本国民の幼児性とは
どちらでもよいことを詠む歌もあるそれでもよいという説もあり
何時も買いている字が不意に出なくなるこれもやっぱり年の故らし
「評」実に面白い。やわらかな言葉の流れの中に鋭利な批評性をもった、梶田氏の作品が読めることの幸いがある。今の所『不意に』字が読めなくなったことはないからだ。そう思っている。
アルトパラナ 白髭 ちよ
純白な蘭語るがに朝毎に匂い豊けく吾を迎える
突然の背の痛みに吾娘呼びて肩にすがりて床より出ずる
木に着けし黄色のカトレイア咲き初むとファシネーラ早も皆に告げ来る
体調のすぐれず坐せば婿も又花を持ち来て吾に見せ呉る
此の雨をセッカ地帯に送りたし巨大な扇風機作りてよ誰か
「評」ファシネーラも婿も寄りて案じてくれる、純白な蘭の香る家庭。五首目の巨大な扇風機を作り雨を送り届けてやりたい大きな心根の氏の作品。きっと痛みなど乗り越えると願いつつ。
ソロカバ 新島 新
アルボラ・グランもとはと言えばパイネイラその名を付けたバイロも古び
その昔コンドミニオのこの辺り山でありしかクァレズマ目立つ
雨後の筍のごと建つ貸し倉庫なかなか貸し手付かぬ所も
犬も歩けばではないが歩いては句材歌材を探す毎日
遅かりし由良之助とは大袈裟な何時ものベンチ先に越されて
「評」氏の作品を読みながらいつも歩いていると、いつしか、こちらが『由良之助』と会いなり額に手を当てて、あたりを見廻すのである。不思議と言えば、そう思う作品である。
バウルー 小坂 正光
誕生日迎へし老妻を伴いて最寄りの日本食堂へ行く
老妻の誕生日祝いて子、孫より色とりどりの花届け来る
白銀の綿畠村も今は無く一望千里のカンナ園つづく
一と期(とき)の日系コロニアの農村は何処も白銀の畠つづきいし
春来る日本列島花盛りサクラ満開、国は花園
「評」歌意鮮明にして己が境涯を打出した所に氏の人間性を思う。こう言う人が人に愛される、と私は信じている。
サンパウロ 坂上美代栄
鉛筆を拾いしだけにギックリ腰の脆さに愛想つかすならねど
家にいて出来る投稿ありがたし腰をかばいてそろりと座る
ふた月を耐えし腰痛予約せし診察日には痛みも消えて
シュシュ漬けを教えてくれて味見までさらに加不足含めてくるる
新聞で「湯もみ」治療を知り得たり美(は)しき言の葉口ずさみ見る
「評」美しき言の葉、『あゝなおった、すっきりなおった』と繰り返し言いながらもみほぐす、作品一連に自癒効果を含んでいる。良き友はありがたい。