その夜、コーチの顔が唐突に私の瞼に浮び上がった。コーチは今、どこにいるのだろう。三年間、殆ど彼の存在を忘れていたのに、珍しく彼は笑顔を作って眼の前に立っていた。ホンジュラスからパナマ、横浜へと約二カ月の航海中、私を苛立たせた得体の知れぬ行動をとっていたコーチが急に懐かしく憶い出された。コーチは生まれ故郷のボリヴィアへ、エリカとアンナは、あのエンセナーダの家へ帰って行くのだろうか。 彼らに、もう、日本人の血をもつために歩んできた茨の道を再び歩まなくてもいい広い街道が開けるのだろうか。
戦争は終わった。彼らが辿った険しい道が、まだ涯もなく続くのだとしたら、いったい何のための犠牲の歳月だったのか……。
戦友たちの寝息の中で、私はいつまでも寝つかれなかった。いや、もう寝る必要もなかった。私は同僚たちに気ずかれないよう床を離れ、月の光を頼りに三角山の斜面を右に辿り、アンナが隠れ家とし、アンナと結んだ洞窟の奥深く進んでいった。
私の生命は、この洞窟の中で永遠の眠りにつけるだろう。安楽に、誰にも知られることなく……。
(「流離」の章、終り)
幻を追う男― ゲバラとの出会いー
第一部
1
私は昭和六年(一九三一)ブラジルの農学生としてブラジルに渡った。エメボイ農学校卒業後、教育者として生涯を送ろうと決め、検定試験を受けて教師の資格を得て赴任したのはサンパウロ州南部の海岸に近いレジストロのカトリック教会付属のパドレ・フレデリコ学院だった。
校長はドイツ人神父、以下女教師五名と日本人の私という世帯で、地方の町としては稀な幼稚園から中学初級までのクラスをもち遠距離の生徒のために寄宿舎があった。
弧の町の南西にポーランド人の集団地パリケラアスーがあり、そこから唯一来ていたエスタニスラウは赤顔の美少年だった。彼は私を兄のように慕い、散歩にはいつも連れ添った。
それからちょうど七年後の昭和十六年(一九四一)、図らずも公務を帯びて帰国。結婚して、満州、中国を一ヶ月に亘って旅行している間に、日本は米国との開戦気運が高まり南米航路が杜絶えたため、日本に留まらざるを得なくなり、間もなく召集されて南方戦線を転戦し、幸運にも戦死を免れて終戦の年(昭和二十年―一九四五)の暮れに復員した。
それから惨めな生活が二十余年が過ぎたある日、図らずもエスタニスラウから写真同封の書簡を受け取った。かっての美少年は立派な紳士になっていた。手紙の内容はブラジル人貿易商の伴をして訪日するから通訳を頼むというものだった。封筒にも便箋にも彼の住所がなく、消印が一九六五年四月十一日となっていたので辛うじて発信日が分ったのだった。
私はエスタニスラウの便りに従って羽田に出迎えた。彼と別れて既に三十年ちかい。私は持参した伯紙にHONMAと大書したものを頭の上に掲げて出口に立った。するとブラジル人と見られる三人の男の中から
「おお、センセイ!」
と叫んで両手をひろげて私を抱くように駆けよった紳士、それが懐かしいエスタニスラウだった。
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