午前11時半から始まった歓迎交流会で本橋団長は、「お寺さんが地域の人の心をしっかりと掴んでいるから、こんなに立派なお寺が作られたのだと痛感した。若い人がいっぱい手伝っている」と挨拶した。和教さんは「どうやったら若い人に日本文化を伝えられるかを、いつも考えている。婦人部が作った手料理をどうぞ」と薦めた。
青年部や婦人部の歌や踊りが披露される中、一行はサンピーテルの刺身、春雨サラダ、煮しめ、太巻きなどの御馳走にハシをのばした。
午後1時から慰霊法要となり、1920年から現在までにリンス周辺(ゼッツリーナ、カフェランジア、平野植民地、グァイサーラ、プロミッソン)でなくなった日本移民と日系人全員三千数百人の名前が書かれた過去帳が入堂した。これは移民90周年を記念して、同寺の青年部が各地の墓地を回って調査した結果、わかったもの。
岡山智浄住職が正信偈をあげる中、一行は焼香の列に並んだ。
続いて「故郷捨てたじゃないけれど、今ではこちらが故郷さ」―「移民の歌」を全員で唱和すると、すすり泣きする声があちこちから聞こえた。
本橋団長は挨拶で「過去帳の1921、2年を開けて驚いた。なんと0歳、3カ月、3歳とかの赤子がたくさん死んでいる。多い所では1頁の半分がそんな状態。今ではあり得ない事と目を疑った。移民が他の国に住み着くことのむずかしさが、改めて痛感させられました。県連もイビラプエラ公園に無縁仏の慰霊碑でも毎年法要をしている。皇室も政治家の必ずそこに立ち寄り、一礼してくれる。先祖を敬う気持ちを大切にしたい」と述べた。
岡山智浄住職(ちじょう、80、熊本)は法話で、「戦前にはリンスだけで年間130、140人亡くなった時もあった。今では赤子はほぼ誰も死なない時代になった。広いブラジルでどれだけ小さい子供が犠牲になったか…。そんな尊い犠牲の上に今日の私たちの幸せがある。ハワイの海岸線には日本移民の墓がたくさん立っている。みな海の向こうの日本の方を向いて『倶会一処(くえいっしょ)』と刻まれている」と語ると、あちこちに涙ぐむ人が見られた。
浄土真宗では、この世の命が終わったら、ただち浄土に生まれ変わり、先に浄土に往生している先祖たちと会うことができることと考え、そう表現する。つまり「ハワイの移民たちは、死んだらあの世では、海の向こうの父母や先祖と一緒になれる」と信じ、海沿いに墓を立てそう刻んだ。(つづく、深沢正雪記者)
移民の歌
(守屋浩=歌「達者でいるかよお母さん」のメロディ、梶原義人替え詞=現ブラジル西本願寺総長)
(1)
五年か十年したならば
必ず帰ると別れたが
言葉も分からぬ山奥で―ヨオ
エンシャーダひけども金は出ず
(2)
じっと瞼を閉じたなら
思い出すのさ泣けるのさ
手紙を出そうと思っても―ヨオ
こんな様子は書けません
(3)
あちらこちらと住み歩き
少しのお金も溜まったで
帰る気にもかったけど―ヨオ
今では父母は遠い国
(4)
故郷捨てたじゃないけれど
今ではこちらが故郷さ
真の一花咲かせて―ヨオ
み親の浄土で会いましょう