明日から旅行会社の案内で京都、奈良を廻り、大阪から帰途にすくというエスタニスラウの言葉に戸惑った。
「もっとゆっくり話す時間がないのか……」
私はアントニオとも話したかった。エスタニスラウは私という人間について、どのように説明してあるのか。ただ、ブラジル南部の海岸に近い小さな町の小学校で教えられた教師だ、という程度なのだろう。しかしアントニオはエスタニスラウが私を紹介したからには私を信頼し得る人物と見ているに違いない……。
そう思うと、このまま別れてしまうのは心残りだった。私は勤めを一日や二日休んでも一緒に旅をしたかった。その旅の間にボリビア革命について、彼が生命をかけてとり組もうとしている思想の片鱗にでも触れることができれば、と考えつづけていたからだ。
「エスタニスラウ、一緒に京都へいってもいいんだよ。もっと話したいんだ」
「いや、センセイには十分世話になっている。センセイには勤めがある。これ以上迷惑はかけたくない」
思いがけなくアントニオがエスタニスラウに代わって口を開いた。それは半ば命令口調で私の胸を刺すように響いた。
「センセイ、もう結構です。これ以上ご迷惑はかけられません。大事な用件も済んだことですから……」エスタニスラウがつづけていうので私は黙った。
京都といわず関西にまだ要件があるのかも知れないと、ふと思いが及んだからだ。
「今日は朝から随分歩きました。お疲れでしょう。ホテルへ引き上げましょう」
私はタクシーを呼び止めてホテルに帰り、ロビーで小一時間南アメリカの想い出を一人でしゃべったあと、二人と別れて家路についた。
3
一週間ほどで旅券がおり、昭和四十二年(一九六七)一月二十八日家内と子供たちに送られて羽田を発った。バンクーバーとボゴタを経てリマに一泊。翌朝プロペラ機でラパスに向かった。ボゴタからリマ間での航空路はアンデスの峨々たる不毛の峯つづきで、私は何度かめかの旅の都度、もしこの六千メートルの山に不時着でもしたらどうなるだろうかと胸をしめつけられる思いがした。
海抜四千メートルのラパス空港に降り立つと深い谷底の一筋の街道に立ち並ぶ市街地が眼下に見おろされた。迎えの車で二キロほどの大使館に着き大使、書記官ら官員に挨拶をすませて近くのホテルに案内された。
ここで何年か暮らすことになるのだろうか。果たしてゲバラは来るのだろうか。そんなことを考えながら旅装を解き、三階の窓をあけて周囲を眺めわたした。今さっき通ってきた空港への曲がりくねった灰色の道が見えた。
一本の木も草もなく、緑色とは全く無縁の死の世界だ。四十度近い傾斜の山肌に点々とインジオの小屋が散らばっている。透き通るような雲のない碧い空がすぐ頭の上に広がっているだけだ。私はベッドに横になった。やはり疲れているのだ。電話で起こされときは二時を過ぎていた。大使館からの電話で今から官邸で夕食会を開くから外出しないで待っていてくれという。
官邸は二キロほど緩い坂を下った小集落の外れにあった。大使以下書記官と経理担当、農業担当の三人の書記官と私と五人が食卓を囲んだ。
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