1915年当時、マラリアに関する知識は皆無だった。「日本人は米」と河畔地帯に入植地を作ったことから、次々に病魔に斃れ、最初の3カ月で80人が命を失った〃開拓古戦場〃が平野植民地だ。
《毎日毎日死人が出、あっちからもこっちからも死人を焼く煙が立ち上がり、残された妻や子や母の慟哭の余韻は夕闇にこだまして、悲痛断腸の極みであった》(『移民の地平線』172頁)という状態であった。
日本人会会長の森部長(もりべ・ひさし、77、二世)の父・久蔵(故)は本願寺の僧侶を23年間務めていたという。この共同体はお寺を中心にしている。
森部家の初代・伊三郎は1913年に渡伯し、平野運平が副支配人をするグァタパラ耕地にはいり、そこで植民地建設の趣旨に賛同して1915年に移ってきた。この植民地の大黒柱ともいえる家系だ。
いち早く1917年には日本人会が設立され、初代会長は平野運平、同年に旭小学校も開校して初代校長には福川薩燃(東京外語スペイン語卒)が就任した。第15区代表には畑中仙次郎(のちにバストス移住地の草分け)などの有名人の名前も見える。
平安山「光明寺」の門徒総代・矢野正勝さん(65、三世)は「1932年から板張りの仏間に仏壇があったが、1950年5月11日に、ようやくこのお寺が建立された」。戦後最初のお寺建立かもしれない。
矢野さんは「昔は野球、相撲、柔道の大会もあった。運動会もやっていたけど、40年前からカフェランジアの町と合同でやるようになった」という。野球チームだけで三つあり、盛んに練習し、カフェランジア大会をやり、トロフィーを出していた。矢野さんは「(州知事だった)アデマール・デ・バーロス杯があったんですよ」と会館の倉庫で見つかったものを出してきた。
重松茂さん(60、三世)は「大半の戦前移民と同じように治太郎(じたろう)爺さんは、お金を儲けたら帰るつもりでいたから、一生懸命日本に送金していました」という。いち早く日本学校が建設され、日本語だけで教育が行われ、植民地も日本語中心だった。
戦争中に学校が接収され、「いまでもとられたまま。接収された後はブラジル学校だけになり、1953年頃まで時々、視学官が来て鞄に日本語の本がないか調べられた」と矢野さんは辛い時代を思い出す。
矢野さんは「1940、50年代が一番多く、最盛期には400家族が住んでいた。でも土地が古くなって、パラナやマット・グロッソ、奥パウリスタに移って行った」と振りかえる。先日まで一行が訪ねていたドラセーナやジュンケイロポリスに、戦後転住した訳だ。
終戦直後には臣道聯盟支部も生まれ、待ち負け抗争が起き、負け組が二人殺された。矢野さんは「おじいちゃん(矢野浅太郎)も御真影を家に飾り、ピストルも持っていた。戦争中に地面に埋めて隠し、何年かして掘り出したら錆びていて使い物にならなくなっていた」という。(つづく、深沢正雪記者)