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一九五四年、日本外務省はボリビアに対して移民の可能性を調べるため調査団を派遣した。彼らは二週間の調査ののちサンタクルース地方を選び、それから北西百三十キロのサンファンの土地を購入することになった。
この頃、企業家で海外からの引揚者西川利道は小規模精糖機械をもって海外進出を計画し、外務省に応援を求めていた。彼の計画は精糖工場周辺を砂糖きび耕地とし、日本移民を入植させ、工場の原料供給を安定させること。他方、入植者の生産物の販売先を確保することだった。彼は大学で農業を専攻し、戦時中はジャワで精糖工場を経営していて海外事業の責任者としては適任者だった。
西川はボリビアに渡り、サンタクルースに戦前から住んでいた古い邦人数名の協力を得て、そこに日本人農業協同組合を設立して理事長になった。日本からも部下を同伴し、ペルーから日系二世の通訳を迎えて体制を整えた。外務省は西川をボリビアにおける移民受け入れ機関と認定し、サンファンにむけて移民を選び出すことにした。それを俗に「西川移民」と呼ぶ。
その後の経過については旧知若槻泰雄氏(第二代移住地支配人、元玉川大学教授)著「原始林の中の日本人」から引用させて頂く。当時のサンファンの地理的条件、環境を知るにはこの書は絶好の内容を示している。
西川移民十六家族、八十七名はオランダ船でい千九百五十五年(昭和三十)五月の出発で、彼らは「一家五十エクタール無償交付」と言う移民募集の条件に胸をふくらませた。
オランダ船はインド洋、大西洋を経て五十余日後にサントスに着いた。途中、ホンコン、シンガポール、ペナン、ケープタウンなどを経、世界三大美港の一つといわれるリオデジャネイロに寄港したときには海岸に立ち並ぶ白亜の高層ビルが背後の山波に浮ぶ眩いばかりの光景だった。上陸すると縁したたる街路樹、行き交う人々の極彩色の衣装は一行を明るい希望で満たした。
しかし、次のサントス港でボリビア行きの汽車に乗りかえると、とたんに厳しい現実に引き戻された。汽車は「特別国際列車」だったが、それは客車でなく貨車だった。移民たちは貨車にアンペラを敷いて終日ゴロ寝するよりほかなかった。
汽車は走ったり止まったり、頻繁に路線を変えたりしながら、のろのろと西北へ向かった。それでも鉄道沿線はどこまでも地平線の彼方まで広がるコーヒー耕地を眺めて、何年か後のわが成功の未来像を見るような気分に浸った。それに途中の駅々では戦前から住んでいる日本人開拓者たちが早朝でも真夜中でも、にぎり飯の炊き出しや豊富な果物を持ち込んで歓迎してくれるのが嬉しかった。中には米俵や醤油だるをくれる人もいた。
時刻表などというものはなく、何時に出発するか分らない汽車を彼らは三時間でも四時間でも待って見送ってくれた。彼らはボリビアを決して「ボリビア」とはいわず、「あの山奥」といった。そして「困ったらいつでもいらっしゃい」と彼らが経てきた苦難の歴史を回顧して慰めてくれる人もいた。そのとき何げなく聞き流していたこの言葉の重みは二週間後にいやというほど味わされることになったのだ。
平原はますます遅くなった。水と薪の補給のためにたびたび停車する。この機関車は薪を焚いて走るので、走行中窓から火の粉がとび込んできて服を焦がしたり、小さなやけどをすることが珍しくない。男たちは薪の積み込みを手伝ったり、上り坂になると機関士に頼まれて汽車の後押しをする。脱線の復旧作業にも馴れてくる。