いよいよコルンバを出発、国境を越えて汽車はボリビアへ入ったが、移民たちは目的地に近かずいた喜びと安心よりもショックの方が大きかった。サントス出発以来、西北に向かうにつれて周囲の風景は次第に「文明度」が薄くなり、国境を越えると、とたんにそれは大きな落差をもって低下した。通ってきたブラジルの田舎ではペンキがはげ、屋根瓦は古びた一軒屋であっても、建物はとにかく洋館だった。
ところがボリビアに入ると屋根は椰子の葉を並べ、壁は椰子の幹を二つに割ったものをしばりつけ、窓はなく、文字通りの土人小屋に変わってきた。田畑は全く見えず、ただ茫々とした荒野がつづくばかりだ。夜は星の光と汽車の吐き出す炎いがいには明るいものは何一つみえない。
最初の難関グランデ川では減水待ちのため二日も待機し、巾一キロメートルの川にかけられた仮橋を、男たちはロープで身を数珠つなぎにして渡った。こうしてサントスを出発してから十二日めやっとのことでサンタクルースの町についた。
その夜は女や子供は駅のホームでトランクを枕に仮眠し、男たちは交替で荷物の不寝番に立って夜明けを待った。七月は乾期だから道路の状態はよかったので翌朝暗いうちにトラックを連ねてサンファンへ向かった。
途中五十メートルほどの道は砂利が敷かれていたが、それからは急に道は悪くなった。乾季というのに深いわだちが縦横に走り、その中に水がたまり、中古のトラックは右に左に大きい穴ぼこを避けながら徐行してようやくピラィ河畔に着いた。河幅六、七百メートルのこの河を、男たちは全員裸になって河に飛び込み、横隊を組んでかけ声をかけながら足踏みして河底を固めた。それが終わるとトラックの通れる場所に二列のに木の枝を立てて目印にした。
翌朝一時から十時にかけて八台のとらっくはどうやら三ファンまで十二キロメートル手前の小さな集落サンカルロスに着いた。休養と入植準備、それに天候待ちで一週間をインジオの家の土間ですごし、二十七日、いよいよ目ざすサンファンへと出発した。
地域最大の町サンタクルースでも八台のトラックを揃えるのに苦労したが、トラックはこの先へは進めないと、ここから引き返した。戸数わずか五〇戸の村落でトラックを雇うのは不可能に近い。ようやく一台を頼んで、残りの荷物は二頭と四頭引きの牛車に乗せて出発した。
戸数十戸余のリディア、五、六戸のインへニオを過ぎると、その先には人家はない。
リディアを過ぎる頃から雨が降りはじめて、きこりか獣が通るような細径は文字通り泥の径で、みな牛車の間を一列になって歩いた。雨にけむる原始林をくぐり抜けるこの一行の姿は正に「難民」だった。
若槻氏は、この時の「難民」から聴取した話しを丹念に以上のように書き記している。
入植地までの苦行はまだつづくが、これまでの記述で、ゲバラが選んだ革命運動の中心地となったこの周辺地域の環境の大要は想像に難くないだろう。
◎
私はサンファンに行くにあたって戦前からラパスで商業を営んでいる数名の古老たちにサンファン周辺の地理的環境、住民の生活状況を聞いて廻ったが異口同音「ひどいジャングルの中で、今でもあそこまで行くのは危険だ」という。また古老たちは、この西川移民のその後について話してくれた。