彼らがサンファンに着いたとき僅か五、六ヘクタールばかりを伐採した空地があるだけで周辺は昼なお暗いジャングルで大木が聳え、その下は密生した草木で覆われ、わずかに獣類の通路と思われる踏まれた雑草の窪みがあるだけだった。
西川は二万ドルの資金を用意していたというが、その大半は移民のために費やし、しかも現地に到着しても日本政府が約束した受入業務委託費はいっこうに到着せず、西川は移民から預かった営農資金に手をつけたという汚名さえ着せられ「石をもて追われる如く」サンファンを追われ、妻とともにボリビアの山深くインジオの社会に姿を消してしまった。
以後、彼の消息を知る者はない。(この状況の中へ、日本政府は第二、第三の移民グループを送り込んでいる)古老たちの結論は「あんなひどい所へはいくな」ということだった。
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しかし、私の目的は移住地の調査ではない。ゲバラがボリビアに入ってくるとすればこの地域に姿を表す可能性が最も高く、その地理的環境を知る必要からだ。若槻氏がサンファンに着任したのは一九五九(昭和三四)年四月だった。それからもう八年もたっている、様子は大分変わっているだろう。
私は着任以来二ヵ月後、サンファンを訪ねることにして、大使はじめ館員たちに挨拶して空港に向かいサンタクルース行のプロペラ機に乗った。一九六七年三月半ばを過ぎていた。飛行機は下降をつづけて二000メートル下のアンデス山脈の中腹、コチャバンバに翼を休める。空気が濃くなった。周囲は緑が濃くなり、色とりどりの草が見える。背後は黄黒色のアンデス山膚が天空までつづいている。
それから出発まで三時間もあるというので市街地に出てみると、広い街道の両側は首都のラパスよりも重厚なビルが並び、自動車も間断なく走っている。しかし人工はラパスの約六一万に対してここは七万五千だが(ともに一九五〇年のセンサスによる。国勢調査が不十分なため現在の正確な数字は掴めない)。農業の中心だけに広い耕地が開かれ、食糧の産出によって市街は活気がある。
サンタクルースまでは、ここから更に一千六百メートル降下する。窓から眺める緑を増した風景はここ三ヶ月も見なかっただけに心が暖まる感じがした。一時間余りでアンデス山麓最大のの集落サンタクルースに着いた。
空港で簡単な荷物の検査をうけて外に出ると幅二十メートルほどの道路が一直線に伸びているが人家らしい建物は見えない。ホテルがどこにあるかもわからない。客待ちのタクシーが数台並んでいて、一緒に来た乗客たちは先を争うように乗り込んでいたが、一人が声をかけてきた。
「あんた日本人だね。乗ってくれ。ホテルへ行くんだろう。わたしもホテル泊まりだから」
人の好きそうな初老で小さなトランク一つを下げている。私は礼を言って乗り込んだ。五分ほどで市街地に入り、男は馴れているらしく五階建てのビルの前で車をとめた。ビルの前に四、五頭の馬が繋いである。恐らく周辺の小地主が用件で町に出てきたのだろう。
めいめい部屋をとったあと、夕食の時間が近かったので二人で食堂に降りていった。もう数名の客が話し合っていた。私たちも向かい合って卓を囲んだ。その時、三人の完全武装の体格の立派な兵隊が入ってきて客たちを眺めまわしていたが、三人はゆっくりした足どりで私の前に立った。私は驚いて見上げた。一人が話しかけてきた。