過日、西銘光男氏と駒形秀雄氏の投稿を拝見し、ごもっともなご意見だと思いました。ブラジル人が口にするのでしたら、日本人をからかった言葉です。
私は戦時中をブラジルで過ごしたものですが、『ジャポネス ガランチード』なる言葉を、戦時中にブラジル人や日本人が口にしたのを耳にした事はありません。
戦後、邦字紙が再発刊されるようになって、紙面で見た様な気がします。誰が言い出したものか、新聞に書かれ、それが広まったのではないでしょうか。それを誉め言葉と思い、日本からの高官も口にするようになったのかも知れません。
戦時中、心無い者達が我々に対する侮辱の言行は生易しいものではありませんでした。弱い立場にある移民に対する侮辱は、忘れることは出来ません。今記憶しているのは、第一に「キンタ コルナ(第5スパイの意) ジャポネス カラブレステ…」。
イタリアの差別民と同じだという意味の替え歌などを、日本人の居る場で歌っていやがらせをされました。また、我々の事を『ボーデ』と言ったり、『ブンダ バショ ペルナ クルタン』と言ったり。これは短足という意味です。『ボーデ』の意味は戦後知ったのですが、日本人同士が挨拶する様が雄山羊が争う時の頭突きに似ているからだそうです。私も「オイ ボーデ」と呼ばれて、悔しい思いをした事が度々ありました。
ひどかったのは女性です。『ジャップ』をもじって『ジャッパ』、その上『ジャッパ トラベサーダ』と言ったり。これは性器のことで、飲み助の集まるバールの前を女性が通ると、恥ずかしい侮辱的な言葉で囃し立てるのでした。
戦前の移民の大半は帰国する心算でしたので、ポ語の習得はしませんでした。言葉が十分でない上に習慣の違いなどから、種々の悲喜劇が起こりました。
ツッパンでの事です。お名前は忘れましたが、シャカラにお住まいの方が買物を馬車に載せて家族の待っている自宅に向かっていると、グアルダが何かの理由をつけて警察に連れて行こうとしたのです。自分が牢に入れられたら、ブラジレイロと3人の子供がパッサ ホーメすると言うと、彼は日本人が働かないとブラジル人が食べられなくなると誤解し、その場で殴打、署でもひどい仕打ちを受けて刑務所に入れられたそうです。ポ語の達者な方の説明で誤解とわかり許されましたが、痣だらけになっていました。
反対に、同じ様に言葉が不自由のため刑務所入りを免れた人達もありました。これもツパンの出来事です。町で用事を済ませた一行4人がジャルヂネイラの発着場に向かっていると、グワルダが小遣い稼ぎか、何か理由をつけ警察に連行されました。その時に署長が一行に何か説明をし、最後に「コンプレンデウ」と年長の千田さんに念を押したそうだが、全く分からなかった千田さんは「ノン ポコレンデ」と答えたそうです。すると署長は笑い出し、グワルダに皆家に帰らせてやれと命じ、刑務所入りは免れたのです。
『ジャポネス ガランチード』も、片言のポ語で言ったのが新聞に載り、広まったのではないかと思います。古い事を思い出して書いたので、勘違いしていることもあるかもしれません。
我々に対するいやがらせや侮辱の言葉を口にするブラジル人は限られたものです。弱い立場にある日本人を、同情して庇って下さる方も大勢居られました。
あの様な不快な事が起こったのも、戦争によるものと思っています。もう二度と起こらないよう、平和の続くことを願っています。