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パナマを越えて=本間剛夫=91

 私は驚いて男の顔を見つめた。濃い髭ずらのエスタニスラウなのだ。懐かしいポルトガル語だ。彼は私の肩を抱いて髭ずらを私の頬にこすりつけた。私は直感した。エスタニスラウがここにいるなら、ゲバラもここだ。次の瞬間、小心な私は身の危険を感じた。私は旅商にエスタニスラウをブラジルの友人だと紹介すると彼は「奇遇ですね」と言い残して部屋へ戻った。
 それから私はエスタニスラウを自分の部屋に入れて向かい合った。
「センセイはどうしてここへ……?」
 エスタニスラウは不審げに私の顔を見詰めた。
「君は知ってるだろう。この奥の山の中に日本人の移住地があるんだ。サンファンだよ。そこの日本人たちに会いにいくんだ。友人もいるし……」
「東京では、そのことは聞きませんでしたね」
 エスタニスラウは、私を信じられないのか問い返した。
「だって、そんな時間はなかったじゃないか」
 エスタニスラウは納得して「そうでしたね」と初めて笑顔を見せた。
 それからエスタニスラウは私を疑う様子もなく東京以来の経過を話し始めた。三十五年前の教会学校の教師と生徒の間柄に戻ったような気持ちになったのだろう。
「センセイ、私は首領に心酔してるんです。ご存知のように、南米諸国の、少なくともアルゼンチンとチリを除いては、経済的に貧困です。これは主要産業が外国資本と数名の地主階級の手に握られているからですね。先ず私たちは政治を人民の手に移すこと、それが私たちの運動なんです。
 センセイもよくご存知のように、ペルーもチリも僅か数家族の地主によって国土が占領され、一般国民は希望のない長い年月を生きてきました。社会主義運動によって、ある国では農地改革が実施されましたが、まだまだそれはほんの一部にすぎず、農民は奴隷生活をつづけざるを得ません。
 グァテマラも、あの世界有数の石油産出国ヴェネズエラさえ外国資本に牛耳られています」
 エスタニスラウは声は低いが、力強く私の耳元で話しつづけた。
「ところで、セニョール・ゲバラは……?」
 私は肝心なゲバラの動静が知りたかった。
「今はパラグアイです。今まで南米の殆んどの国を巡り各国の運動家と会談をつづけましたが、彼らは我々の運動の意味を理解しようとしない、権力の盲者たちで、運動が成功した暁には政党の首領として権力を握る、そういう連中です。奴隷のような生活に喘ぐ人民の姿を見ながら、彼らの生活向上は二の次。この国ももちろんです。キューバを出てから三回もこの国を訪ねていますが、この国にもペルーと同じく強力な複数の反政府グループがあるんですが、どの指導者も似たり寄ったりで頼みになりません」
「君らはどこに拠点を置くのか」
「そのために私がここへ来ているんです。私たちはまず、コチャバンバからサンタクルースへの街道を横切って、ここを拠点にするでしょう。首領はこの県の農民の革命意識を、調べてくれ、というので、ここへ来たんです」
「ありがとう。分ったよ、わたしは明日サンファンへ出発する。帰りにまたこのホテルに泊まるよ……。さっき兵隊三人が私の身分を調べて帰った。君が、そんな重要な仕事をしていることがわかると危ないからね、十分気をつけるんだよ。もう大分遅くなったから休もうか」
「センセイ、ちょっと待って下さい。センセイはまたラパスへ帰られるんですね。これは我々の同士です。ターニャはキャバレー、パウリーナは警察庁にいます」