それから間もなく、私がベッドに横になろうとすると電話のベルが鳴った。パウリーナからだった。
エスタニスラウは今ごろたぶんゲバラとドブレに会っていると思う。それから彼女は私がゲバラについて十分な認識がないと見たのか、ゲバラが現在までどんな活動をしているのかを説明した。
ゲバラが医師であること。学生時代、彼は考古学を専攻していたが、友人とオートバイでチリから北上してヴェネズエラまで旅行したとき、偶然ライ病院を見て、患者たち人間同士の連帯や誠実さに心打たれて医者になり、再びこの病院に来て働こうと決心、帰国して医大を卒業し、ヴェネズエラの病院にいこうと途中ラパスに立ち寄った。
ところが、これも偶然二人のアルゼンチンの政治亡命者と出会い、共にアンデスを越えて北上する旅の間に二人の亡命者の感化をうけて革命運動に身を置くようになった。彼の若い純真な性格はボリビア、ペルー、エクアドル、コロンビア諸国の原住民の悲惨な生活を目のあたりにして、じっとしていられなくなった。素朴な青年は見事な革命家になったのだ、という。
パウリーナの語り口は熱を帯びてきた。彼女は私を同志として共に革命運動の中へ誘い入れようとしているのが感じられた。
数日後、私はターニャが働くキャバレーに大使館の同僚を案内役にして出かけた。キャバレーはホテルから数十メートルの近さで、私は朝夕、その前を歩いていたが、いかにも古びた建物で、入ると、これが市民の歓楽センターなのかと疑うほどみすぼらしかった。高地のため材木が高価なのはわかるが、床板が薄いせいか歩くとギシギシと鳴った。ホールで五、六組のペアが踊っているほかは壁を背にした人待ち顔の白人の美女たちが一斉に微笑んで私たちを迎えた。
天井から下がった大輪のシャンデリアの明りは弱かったが、ゆるい回転のたびに美女たちの豊かな肉体を浮き上がらせて迫ってくるような錯覚に襲われた。彼女らは長いスカートの者や太腿も露なパンツのような短いスカートを穿いたものやまちまちだった。
音楽が止んだ時、私の前に立って手を差し伸べたのはターニャだった。タンゴの曲に乗ってターニャを抱いて踊り始めるとターニャは私の耳に唇を寄せて囁きはじめた。
「エスタニスラウから連絡があってね。きのうゲリラ用の戦闘服百着、日系会社のコイトに注文したわ。パウリーナは三日前ペルーに行ったわ」
私は驚いて抱いていた腕を離そうとした。百着の戦闘服を町の工場に注文するなどとそんな不用心でいいのか。ゲバラは何のために隠密行動をとってきたのか、と憤りさえ覚えた。
ターニャは私の腕が急にゆるんだので私の驚きを感じとったらしく再び囁いた。
「心配ないのよ、全然。コィトはわたしたちの理解者なんですもの」
ターニャの落ちついた囁きに一応安心した私は踊りつづけた。
コィト(小糸)紡績会社はアルゼンチンのブエノスに本店を構えて、ペルー、パラグアイ、ボリビアに支店を設ける大会社だった。前代社長はアルゼンチンの初期の農業移民を経て、アンデスの麓の町メンドサで、果樹栽培で成功した長野県の機織業の出身だった。彼もまたブラジルやペルーの移民同様、大耕地の農奴生活の体験者だった。だから農民救済に生命を捧げて活動するゲバラの運動に理解があるのだろう。