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植民地時代から現代まで=畜産業発展の長い歩み=パラグァイ 坂本邦雄

畜産業の様子(Foto: Carlos Alberto/Imprensa MG)

畜産業の様子(Foto: Carlos Alberto/Imprensa MG)

 クリストバル・コロン(コロンブス)が率いるスペイン船体が新大陸アメリカを発見したのが1492年10月12日の早暁だった。
 だが西回りの航海でジパング(日本)とインドを目指したものでコロンブスは最初の上陸地(カリブ海バーマス列島のサンサルバドル島)がインドだったと亡くなるまで信じていた。
 いわゆる西欧諸国の帆船大航海時代(15?18世紀)初期の話で、ガリレオ・ガリレイがそれ迄の天動説に対し、太陽を中心とする地動説を唱えたのが漸く認められ出し、地球は平らではなく丸くて西へ西へと航海すれば、マルコポーロが支那より持ち帰った話しの、「東の黄金の国ジパング」に辿り着くとコロンブスは思い込んでいたのだった。
 従いその途中で突き当たった前述のサンサルバドル島が新大陸に属していたとは毛頭想像もつかず、しかも出会った原住民の肌色が褐色だったために、東インドの何処かの島に到着したものとテッキリ誤解したのである。
 よってその時、褐色肌の原住民を「インディオ、即ちインド人」と呼び、それが基で爾来アメリカ大陸の先住民はインディオと総称される様になったのである。
 ついでに言えば、アメリカが新大陸だと気付いたのがポルトガルの要請で1501年にアメリゴ・ヴェスプッチが、南米東海岸を探検航海した際に、正にこの大陸が「新しい大陸、新しい世界」だと初めて確認し、世に明らかにした。
 これが故にコロンブスが最初に発見した新天地は「アメリカ大陸」と名称されるに至った。本来ならば当然「コロンビア大陸」と呼ばれるべきところを、アメリゴが不正に彼の名を横取りしたと言われるが、最後まで自分の新大陸発見の偉業に気が付かなかったコロンブスの罪なのは仕方がない。

「牝牛の頭」という名の冒険家

 なお、話しは回りくどくなるが、スペインやポルトガルに依る新大陸の征服探検時代に名を馳せたスペイン人でアルバル・ヌーニェス・カベサ・デ・バーカ(1490?1560)と呼ぶ冒険家がいた。
 その名は訳すと牝牛(めうし)の頭(こうべ)(Cabeza de Vaca)のアルバル・ヌーニェス(Alvar Nunez)となるが、彼は1528年にパンフィロ・ナルバエスが率いる探検隊(300人)の一員に加わり、今はアメリカのフロリダ州タンパからメキシコ北部へと進んだが多くの隊員は死亡して、カベサ・デ・バーカが最後にその残党の隊長になった。
 だが、或る島に至った時に原住民部族の捕虜になり、7年後にそこを3人の隊員と共に脱出し、本国へ帰還したのが1537年だった。
 そこでスペイン王はカベサ・デ・バーカをラプラタ副王庁の先遣総督に任命した。
 同総督は1541?42年に探検隊を組織して、ブラジル大西洋岸サンタカタリーナから内陸アスンシォンまで、未知の道程1600キロを踏破し、その途中でイグアスの大瀑布を発見している。
 日本語では牛や馬を1頭、2頭と数えるがスペイン語でも矢張り牛何(なん)カベサ、馬何(なん)カベサと数えるのと同じである。
 パラグァイは牧畜業に関する多くの豊かな歴史(伝説)にこと欠かない。

ゴエス兄弟が牛初導入者

 かくして初めてパラグァイへ牛を導入したのはエスシピォンとヴィセンテの両ゴエス兄弟で、1556年に知名のガウチョ(牧夫)ガエテがブラジルから1頭の種雄牛(トーロ)と7頭の牝牛(バーカ)の牧群を追って来たのが、パラグァイの畜産業の始まりだと云われる。
 両ゴエス兄弟は牛群運搬の代償としてガエテに其の内のウナ・バーカ(牝牛1頭)を与えた。
 ガエテはこのウナ・カベサ(1頭)のバーカを大変な高値で売って大儲けした。これがエライ評判になり、それからは物の取引価格が高すぎると、「ガエテのバーカよりも高い」という諺(表現)が永らく後世まで残った。
 それ以前の1542年に、カベサ・デ・バーカ総督が率いる探検隊が大西洋岸のサンタカタリーナ沖で難船し、其処から西へアスンシォンまで遥けき道なき道を辿った事は前述の通りで、
 この時に「牝牛(めうし)の頭(こうべ)=カベサ・デ・バーカ」総督は名前はバーカだが、難波船の牛は助けず、(或いは道中での食糧にしたのかも)26頭の馬だけをアスンシォンに連れて来た。
 歴史は続き、アルト・ペルー(現ボリビア)とブエノス・アイレスからの良種牛馬の導入でパラグァイの牧畜は発展したが、一方ではグアイクル族とパジャグア族の原住民二部族間で牛馬取り合いの紛争を起した。

害虫ダニが伝播蔓延

 独裁者ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア総統(1814?40年)の鎖国政権下で唯一交易が許されていたブラジルに対し、1829年には生体牛10万頭と牛皮20万枚が輸出されるに至った。しかし逆に恐るべき牛の害虫ダニが同国より伝播し、大被害に悩まされた。
 フランシア総統はその対策に全国牛群の半数以上の強制屠殺を命じた。識者の中には牛を激しく追い回せば寄生性ダニは振り落とされるとして、このダニ退治法を推薦したが失敗に終わった。
 例の三国同盟戦争(1865?70年)の開戦当初はパラグァイの飼育畜牛は150万頭に達していたが、終戦時には1万5千頭に減っていた。しかも悪いことにその大部分は戦役中は手入れも出来ずに野生化してしまった牛群だった。

現在1200万頭を飼育

 それから、1940年代になって、アメリカの旧STICA・米州農業技術協力機関の指導で、ヨーロッパ種の牛がカアサパ県のサルビ氏によって導入され、以降1942年からパラグァイの畜産業は着実に改良改善の道を辿って来た。
 現在、パラグァイでは大小12万4千人の牧場主が全国で1200万頭の牛を飼育するほどに進歩した。
 そして、この畜産業はGDP・国内総生産の12%を占め、200万人の経済活動人口の雇用創出に貢献しているのである。
 ARP・パラグァイ牧畜協会は1885年にパラグァイ畜産会として発足し、1938年に現在の協会名であるARP・アソシアシォン・ルラール・デル・パラグァイに改称された。
 近年パラグァイは世界第6位の牛肉国にランキングされるまでになり、1979年にヒルトン・ホテルチェーンはパラグァイの牛肉を、いわゆる最高級品指定の「ヒルトン・クオータ」の枠に加えるに至った。
 これは、畜牛の品種改良などの努力が実った結果で、最近はエクアドルあてにエステ市のグアラニ国際空港からのB777-200F型ジャンボ輸送機による、1万2千頭の優良牛の輸出契約が成立した。
 目的はエクアドルの飼育畜牛の品種改良を目指した世界でも珍しいケースで、早速ペルー、コロンビア、ボリビア、中米パナマ等々の希望者からの問い合わせが相次いでいる。