1959年5月26日、西ドイツのミュンヘンで行なわれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で、64年の東京五輪開催が決まった。戦後わずか20年で世界的祭典を迎えることができた影には、アメリカの日系二世、和田フレッド勇の活躍があった。彼は東京招致のため中南米に足を伸ばし、ブラジルでは日系人も協力していた。(小倉祐貴記者、Texto=Yuki Ogura)
和田は1907年9月18日、ワシントン州生まれ。両親の故郷である和歌山県御坊市のサイトには、「出稼ぎ漁夫としてカナダに渡った名田町出身の父善兵衛と、由良町出身の母玉枝の長男」と紹介されている。
幼少期は和歌山で過ごし、帰国後は戦中の混乱を経てロスで大規模な商店を営んだ。そんな折、49年8月の全米水泳選手権に招待された「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進や橋爪四郎をホームステイさせ、世界記録樹立を陰ながら支えた。
そんな協力に端を発し、当時の日本水泳連盟会長である田畑政治を通じて、首相岸信介から和田の元に親書が届く。
「今般貴殿に東京オリンピック準備委員会の就任方を依頼し(中略)、承諾下さいますようお願い申し上げます」。そうして彼は59年3~5月ごろ東京五輪誘致のために、妻の正子と中南米を巡ることになった。
昨年、日本でフジテレビ開局55周年ドキュメンタリー「東京にオリンピックを呼んだ男」が放映され、本紙でも2010年3月19、26日付け5面「国際派日本人」で紹介している。
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ブラジルで迎え入れたのは和田と同じく和歌山出身で元援協会長の竹中正、文協ビルを設計した鈴木威ら。その内の一人に宝石店経営者の石井賢治さん(83、長野)=サンパウロ市在住=がいた。51年の大晦日、サンシルベストレ国際マラソンに日本人として初出場したことで有名な石井さんは、59年の来聖時(4月6~8日)に和田と初めて対面する。
和田の印象は「明るい人柄だった」といい、スポーツ選手らを快く受け入れてきた人望が伺えたようだ。サンパウロ市、リオを訪れたがその前後にはメキシコ、キューバ、亜国、チリなど少なくとも9カ国を訪問している。
戦後間もない日本にとって誘致活動に経費を充てる余裕はなく、妻の正子とは自費で各国を巡った。石井さんは「純血日本人でありながら戦勝国にいたことが、日本への思い入れをより強くさせたかもしれない」と心中を探る。
同7日にはシルビオ・デ・マガリャンエス・パジーリャ元サンパウロ州体育局長らと面会した。当時、ブラジル・オリンピック委員責任者だったパジーリャは親日家としても有名で、自身も元陸上選手だった。
同種目の峯定実(元文協評議員幹事)とは旧知の仲で、彼の仲介もあり30分ほどの会談は、終始笑いが絶えなかったという。付き添った石井さん曰く、「雰囲気良く東京への投票を快諾してくれた。何の裏取引もなくね」と笑う。
ブラジルからの〃清き一票〃が約束された瞬間だったが、どうも実情は少し違ったようだ。
『祖国へ、熱き心を―東京にオリンピックを呼んだ男』(高杉良、講談社)によれば、東京に票を投じる条件として、他の委員から「総会があるミュンヘン、そして日本にも寄りたい。旅費二千ドルを負担してほしい」と嘆願された。
自費で賄うことを考えた和田だったが、それに手を差し伸べたのが当地のコロニアだった。その日のうちに急きょ文協理事会が開かれ、十数人の役員が集まった。常任理事でもあった竹中は「和田さんご夫妻がこんなに苦労されているのに、われわれが手を拱いているとしたらブラジル日系人の恥だ」と、持ち前のリーダーシップを発揮し賛同を得る。
翌8日午前には邦字紙三社の取材も受け、後日、東京支持の確約を報じた。そして運命のIOC総会―。1回目の投票で58票中34票の過半数を獲得し、東京開催が決定した。ブラジルからの一票は和田、そしてコロニアの熱い思いが実を結んだのだった。