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「日本人なくして北パラナの開拓なし」=州入植百周を盛大に祝う=前線基地だったカンバラ

 パラナ日伯文化連合会(折笠リカルド力己知会長)が主催してパラナ州日本人入植百周年記念式典が13日にカンバラ市に約150人の日系団体代表が集まり、続いて翌週20日には慰霊祭がローランジャ市日本移民センターで盛大に挙行された。カンバラは北パラナの玄関口として、また〃足場〃として重要な役割を果たし、上野米蔵と息子アントニオ、松原武雄らを初め数多くの移民史に残る逸材を輩出した。日系人口160万人の1割約15万人(第2位)が居住する重要な同州が百周年を迎えている。

運命左右したタウバテ協定

喜屋武アントニオ会長

喜屋武アントニオ会長

 カンバラ日伯文化協会の喜屋武アントニオ会長は百周年式典で、「コーヒー国際価格の大下落を受け、1906年に署名されたタウバテ協定により、サンパウロ州、ミナス州、リオ州でのコーヒーの新規植付けが禁止された。それにより当時は未開発だったパラナ州への開拓気運が盛り上がった。1915年から日本移民の本格的な入植が始まり、そこから北パラナの発展につながった」と一世紀を振り返った。
 《第一番は福島県人菅野氏と本田八良氏で、大正(1914)三年であった》『パラナの素顔』(サ紙、1964年、61頁)とあり、翌大正4(1915)年にモジアナ線から日本人10家族、さらに16年には20数家族が続いた(同62頁)と書かれている。10家族単位で〃本格入植〃が始まったのが1915年のようだ。


最初はビラ・ジャポネーザ

高橋庄一さん

高橋庄一さん

 日本移民の〃パラナ進出の前線基地〃はバルボーザ耕地だった。モジアナ線リベイロン・プレット付近のアルバレンガ駅フィゲーラ耕地のアントニオ・バルボーザ耕主は、タウバテ協定でサンパウロ州発展に限界を感じ、新しい開拓地を視察に北パラナに赴いた。ソロカバナ線オーリーニョス駅から先はサンパウロ―パラナ鉄道会社が工事を始め、カンバラ駅は1925年に開通した。
 その機運を先読みして旧耕地を売り払い、全く未開の広大な土地、現在のカンバラからアサイ―にまで広がる原始林を購入した。その一部が1915年に建設したブーグレ耕地だった。
 《大正四、五年ごろからコロノとしてバルボーザ耕地に配耕された一部が集まって建設したのが「ビラ・ジャポネーザ」であった。大正九年(一九二〇年)で、開拓者は古賀丈三、楢原正、吉良米吉、伊藤富太郎、鍋島松平、田中喜四郎さんたちだった。彼らの目的は、ノロエステ線の平野植民地のように、ただ一途に自分らの土地がほしいという一念であった》(同62頁)。
 モジアナ線から移転したブラジル人耕主は、サンパウロ州時代から信頼を寄せていた日本移民に開拓を任せた。《バルボーザ耕主自身が個人名義で、日本において、百家族のコロノを募集した》(同)ぐらいだった。そして《大正十年、同耕地に十七年間も総支配人をしていたゾロ・アストロ氏が支配人の職から引退するとき、「日本人なくして、北パラナの開拓はない」と激賞したほどである》(同)となった。
 式典の折り、今もビラ・ジャポネーザに住む高橋庄一さん(1919年7月北海道生まれ、95)に話を聞いた。「当時6歳。1925年渡伯ですから、今年でちょうど90年です」と胸を張った。
 翌26年にカンバラに入植し、以来、ずっと動いていない。「僕が来たときはまたアランバリ(旧市名)だった。ビラ・ジャポネーザができて6年経っており、すでに20家族ぐらいいた」。
 1965年からピンガ製造を始め、95年まで「SOL」ブランドで広く知られた。「ブラジルは一番にカフェ、二番に牧場、三番にピンガが事業として可能性があると父は考えていた。最初の二つは大資本が必要だからピンガをやった」と解説する。「少しずつ事業を拡大して1980年頃が最盛期。年6万リットルを生産した」。
 式典当日朝、共同墓碑で慰霊祭が行なわれ、カンバラで1920年からの15年間に亡くなった日本移民360人の名が貼り出された。その多くは生後間もない乳幼児だった。州境に流れるパナマパネバ河近くに入植したものは特にマラリアにやられ、尊い命を落としたという。

製綿工場で成功の上野家=ファゼンダ松原もここから

上野久良夫さん夫妻(左)と吉田パウロ国広さん夫妻

上野久良夫さん夫妻(左)と吉田パウロ国広さん夫妻

 〃永遠の連邦下議〃上野アントニオさんの父・米蔵も、バルボーザ耕地初期入植者の一人だ。百周年式典に出席していたアントニオさんの弟久良夫(1933年12月カンバラ生まれ、二世)=ロンドリーナ在住=に話を聞いた。
 上野米蔵は親戚が笠戸丸で渡伯していたらしく、1913年に着伯。最初の2年はモジアナ線モコッカに、その親戚を頼って1915、6年頃にはバルボーザ耕地に入っていたという。「バルボーザ耕地では7年契約。入耕したら自分で開拓してコーヒーを植え、3年目から収穫できるようになり、100%自分の物にできた。でも8年目に土地を返す」というやり方でどんどん開拓が進められた。
 日本移民はそれで資金を作り、鉄道工事に先駆けるようにロンドリーナ方面へと土地を買って入って行った。
 上野家はカンバラの町で乾物屋を開き、アサイ―に移転して製綿工場を設立。「1963、4年頃は州ではうちが一番、ブラジルでも3位の製綿工場だった」と懐かしむ。当時、アサイ、ウライ、バンデイランテス、サンジョアン、センテナリオ、ゴイオエレなど8工場に12台の最新鋭の巨大製綿機を設置していた。
 その勢いで1959年に、上野家はサンパウロ市に進出し、1978年にニッケイパラセホテルを建設した。アントニオ氏はアサイ市議2期を皮切りに、パラナ州議1期、連邦下議8期を務めた。60年代にはコーヒー価格などを決める組織ブラジル・コーヒー院(IBC)メンバーにも選ばれた。
 式典の司会をしたアサイー在住の吉田パウロ国広さんも「その頃のパラナの日系社会は、上野さんに夢を託し、当たり前のように協力していた」と懐かしがった。
 61年には日本向けに製綿輸出までした。78年にゴイオエレにエタノール工場建設、94年に砂糖も生産し始めた。パラナ州に残って会社経営を担当したのが久良夫さんだという。
 ただし、綿畑がバイーア州やミナス州に移ってしまい、州内に原料がなくなったことから96年に製綿工場は閉鎖され、ニッケイパラセホテルも2年前に売却した。

続々と入った戦後移民

呉屋吉律さん

呉屋吉律さん

 サンパウロ市から式典に駆けつけたブラジル日本文化福祉協会の呉屋春美会長は「沖縄から子供の頃にカンバラに入植し、ここで教育を受けた。とても懐かしい場所。節目の年に文協会長になってとてもうれしい」と懐かしそうにのべた。
 彼女の義理の父、呉屋吉律さん(1928年3月沖縄県西原村生まれ、87)は「父(盛順)は1933年に渡伯し、私は39年に遅れてきた。残った母は沖縄戦の時の艦砲射撃で、兄も徴兵され戦地で亡くなった。自分も日本にいたら…。ここに来て75年。カンバラでは戦前の一世は少なくなりました」と感慨深げに語った。
 今も息子らが中心に55アルケールの畑でトウモロコシ、小麦、大豆を生産する。長男の嫁のことを「春美さんは幼い頃からとても賢い子だった」と思い出す。「バルボーザ耕地は戦後、南米銀行の所有となり、松原武雄さんが買ってファゼンダ松原になった。その後14、5年前にウジナ・バンデイラが買ってサトウキビ畑になった」という。
 「パラナ百周年はとても嬉しい。広い州内で、ここが一番伝統ある場所として式典会場に選ばれたのは誇り」と微笑んだ。

国吉真一・千代さん夫妻

国吉真一・千代さん夫妻

 国吉真一さん(1933年12月沖縄県国頭郡生まれ、81)は、公式な戦後移住が始まる2年前、呼び寄せで1951年に渡伯した。「祖父が戦前からここにいた。GHQが出した米国のパスポートを使い、米軍機で東京まで出て、横浜港からウィルソン号でサンフランシスコへ。飛行機でニューヨークに飛び、さらにパンアメリカンのプロペラ機でサンパウロに来た」と思い出す。
 祖父の国吉牛さんは1912年渡伯の初期移民だ。16年頃に沖縄県人が多かったアグア・デ・ビエイラへ入った。牛さんは46年に創立者の一人としてチジュカ・プレットに移り、51年に真一さんをそこへ呼んだ。「バルボーザ耕地の一部だったところを分割して購入した。多いときは沖縄県人だけで30家族もいた」。

清水晴男さん

清水晴男さん

 国吉さんは執筆意欲が旺盛で、自家版の自分史も出した。戦前の綱引き祭りの様子、終戦直前の米兵が上陸してきた時の様子など、貴重な証言がちりばめられている。さらにブログ(shinichikuniyoshi.blogspot.com.br/)も書く。来年は結婚60周年を迎えることから「続編を出すつもり」と意気込む。
 清水晴男さん(1948年2月愛知県生まれ)は1967年渡伯で、最後発の戦後移住者の一人だ。カンバラ草分けで戦後に日本人会会長を長年務めた桑原治さんの跡継ぎとして呼び寄せられた。「カンバラの最盛期は戦争前で300家族ぐらい居たんじゃないでしょうか。鉄道が延びるのにしたがって、どんどん奥に奥に散って行った。僕が来た頃には130家族ぐらいに減っていましたよ」。

「日本文化の灯消すな!」

式典前夜に準備するカンバラ文協婦人会の皆さん

式典前夜に準備するカンバラ文協婦人会の皆さん

 式典の前夜、カンバラ文協会館では婦人会を中心に食事の準備が行なわれていた。婦人会長の梶原フローラさん(82、二世)は作業の手を緩め、「1985年頃には30何人もいたんだけど、今は14人。大勢亡くなってしまいました」とさびしそうに語った。
 元市議の坂本和之さん(58、二世)は「クチリーバやロンドリーナなどの大都市の大学に進学した子供は、そのまま就職して帰ってこない」という。式典に関して「カンバラがあったからパラナの日系社会が始まった。ここから州全体に広まった。式典ではみんなにその事実をかみ締め、再認識してほしい。そして何より先亡者の魂に感謝する日になってほしい」と強く念じているという。
 呉屋オスカールさん(57)は「カズ(元日本代表の三浦知良選手)とサッカーしたことあるよ」と思い出す。「松原サッカークラブが健在だった頃、僕らも夕方、遊びでサッカーをやりにいって、たまたま一緒になったことが何回かあった」という。「話したことはほとんどない。でもあのクラブにはたくさんの日本人留学生が滞在していたな」と懐かしそうにいう。ファゼンダ松原が傾いたあと、同クラブも15年ほど前に消滅したという。

島田巧名誉会長

島田巧名誉会長

 パラナ日伯文化連合会の島田巧名誉会長(1933年10月、サンパウロ州アララクアラ生まれ)は、「私の住むアサイーには最盛期の1950年代、日本人は3500家族もいた。今は700家族だけ。州内ではクリチーバの6千家族、ロンドリーナとマリンガそれぞれ5千家族に次ぐ数が住んでいる。20年ぐらい前までは連合会傘下の日系団体は75を数えたが、今は42、3だろう。日本語は減りつつあり、とても心配している。日本文化の火を消さないように頑張らなければ」と表情を引き締めた。

 巧さんの弟でロンドリーナ在住の島田季雄さんは、「以前の総領事がこんな比較をしていた。サンパウロ州の日系人はコロノ出身者が多いが、パラナ州は最初から土地を買って入った地主が多い。それがおのずと発想の違いに反映すると言っていたのが印象に残っている」という。
 アサイー出身の前岡家は州内で100店舗以上展開する薬局網「NISSEI」を経営し、有名な吉井建設の従業員は5千人を数える。パラナ日系社会の本格的な発展は実はまだこれからかもしれない。

百周年を記念してBR―369沿いに建設された大鳥居

百周年を記念してBR―369沿いに建設された大鳥居