民俗学者の折口信夫は、芸能史や国文学を研究する中で、日本における物語文学の原形として「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」という概念をとなえた。本来なら王族や貴族などの血筋を持つ高い身分にあるものが、何らかの理由で捨てられたりして家を離れざるをえず、不幸な境遇や下界に置かれ、その中で旅や冒険をして正義や何らかの力を発揮するというもの。ギリシア神話の時代からある一連の物語群だ。
そんな「貴種流離譚」のブラジル版といっても良さそうな日本の有名人の家族や親戚が、華やかなはずの日本での生活から地球で最も遠く離れた地に移住してきている。
『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』などの耽美的な作品で有名な小説家・谷崎純一郎の実妹・林伊勢さん(故)、尾張徳川家第14代・第17代当主・徳川慶勝の孫である徳川義忠さんと妻禮子さん(あやこさんは筑前秋月藩・黒田長敬の長女、共に故人)も戦前の移住者だ。
月刊『地理』2008年10月号(古今書院)によれば、民本主義の提唱者である吉野作造の姪・吉野友子。日本に亡命したインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースを助けたことで知られる新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の三男・文雄、詩人の与謝野鉄幹の甥・素、お札にもなった新渡戸稲造の甥・太田秀敏らも渡伯している。戦後なら、第2回紅白歌合戦(1952年)の紅組司会も務めた芸能人の丹下キヨ子の娘、丹下セツコもいる。
数多くいる〃貴種〃の中でも極め付きだったのが、《一九五一年四月渡伯されたことは、「昭和の天孫降臨」と噂された位、在伯同胞に大きな感動を与えた》(『在伯日本人先駆者傳』142頁、パウリスタ新聞社、1955年12月)――と書かれた多羅間俊彦さん(享年86、東京出身)だろう。
祖国からは下に見られがちな在外同胞社会において、彼らの存在は「いろいろな移民がいるもんだ」と思わせる部分があり、いわば華を添えるような存在感があった。
移住した明治天皇の孫
そんな多羅間さんが4月16日に、心臓発作のためにサンパウロ市の自宅で亡くなった。東久邇宮稔彦王と同妃聡子内親王の第四王子として生まれたという血筋のために、日系社会では「多羅間殿下」と呼び親しまれていた。初七日ミサは4月21日に自宅近くのサンタテレジンニャ教会で行われ、当日は祭日だったにも関わらず100人以上が参列した。
亡くなった後、宮内庁の侍従を通して、天皇皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻などからの「お亡くなりになりましたことに対し、ご家族にご弔意をお伝えするよう仰せつかりました」との電話が自宅にあった。アリッセ未亡人が対応し「本当にありがたいお心遣い」と心から感謝しているという。
両陛下は、ご来伯時にサンパウロ市で会ったことをたいへん懐かしく思い出しているとのことメッセージを託された。また皇太子殿下ご夫妻からも、大変残念に思うとのお言葉に加え「日本移民百周年のおりに、大変良くして頂いた事を、ありがたく思っております。心からのご冥福をお祈りいたします」との心のこもったメッセージが託された。その他、秋篠宮ご夫妻からお言葉もあった。ミサでお言葉の全文が披露されると会場には驚きの声が広がった。
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多羅間さんの父は東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう、887―1990)。母の旧名は泰宮聡子内親王(やすのみやとしこないしんのう)で明治天皇の第九皇女。つまり、母方からみて明治天皇の孫にあたる。多羅間さんに会った人は「お約束」の様にその血筋を尋ねた。その時、彼は「明治天皇から孫を見て一番上が昭和天皇、一番下がボクでした」という表現をよく使った。
明治天皇は皇后との間に子女はおらず、側室との間に男子5人(大正天皇を含む)、女子10人の皇子女をもうけた。成人した男子は大正天皇ただ一人、成人した皇子女も房子内親王(北白川宮妃)と泰宮聡子内親王(やすのみやとしこ、東久邇妃)を除き、皆50代までに若くして亡くなっている。
つまり、生き残った明治天皇の皇子女の一番下である泰宮聡子内親王がもうけた4人兄弟の4男が多羅間さんであり、まさに本人のいう通りだ。言い方をかえれば、皇位継承する可能性は一番低い。
戦後移民の開始前に移住
戦後移住開始の2年前、多羅間さんは1951年4月に、当時ごく珍しい飛行機で華々しくやってきて、邦字紙上では連日、大々的に報じられた。
パウリスタ新聞4月1日付は《話題の主、渡伯の途へ 東久邇氏横浜を発つ》と来伯前から伝え、同21日付では紙面右上のトップ扱いで《踏んだあこがれの土 東久邇俊彦氏きのう着伯 一介の百姓になる》と当時の首都リオに着いた様子、同24日付では左上のカタ扱いで《朗らかな好青年 東久邇俊彦氏、元気で着く》とサンパウロ市に着いたところを直接にインタビューするなど手厚く報じた。
戦後初の石黒四郎総領事が赴任したのが、1951年12月。戦後初の大使・君塚慎が赴任したのが52年9月、最初の戦後移民団がサントス港に到着したのが1953年1月だったから、多羅間さんが来た時期がいかに早いかが分かる。
日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約が51年9月。多羅間さんがそんな早い時期に移住する事ができたのは、永住者の養子に入って、「家族呼び寄せ」という形をとったからだった。
養子縁組した多羅間鐵輔は、戦前に在サンパウロ総領事館に勤務して1915年創立の平野植民地、アリアンサ移住地建設などに尽力した人物だ。退官後に一移民として改めて移住し、ノロエステ鉄道線リンスでコーヒー耕地を経営した。
第2次大戦の開戦直後に交換船で帰国を勧められたが「移民と一緒に残る」と決断し、戦中42年に当地でなくなった。多羅間さんは、そのキヌ未亡人の養子となった。
ニセ宮詐欺事件もおきた終戦直後
サンパウロ市のホテル・ロビーで取材(13年1月10日)した際、移住動機を尋ねると「多羅間さんに跡継ぎがいないと聞いたから。アメリカ人とはずいぶん付き合いがあったが、プロテスタントの国よりも、南米の方が住みやすいのではないかと思っていたので、前から行きたいと思っていた」と答えた。
渡伯当時は、勝ち負け抗争の余韻が色濃く残っている時代だった。多羅間さん移住後の1954年、〃朝香野宮〃を自称する詐欺師(加藤拓治)が献金を集める詐欺を働いた「ニセ宮事件」、自称〃特務機関〃の川崎三蔵が起きて大きな話題をふりまいた。
ニセ宮事件について聞くと「朝香野宮は義理の兄弟にあたるから、良く知っている人だよ。ウソだとすぐにわかる。ありえない世界だね。勝ち負けの騒ぎがあるとは聞いていたが、自分とは関係ないと思っていた。その種の人たちが私に接触を求めて来たことはない。もし会いに来たら『バカだね、あんたたち』といってやろうと思っていたよ。そういう機会はなかったけどね」と笑い飛ばした。
多羅間耕地の経営を10年間ほど引き継ぎ、その後はサンパウロ市に移転してプロドゥトーレス・コーヒー倉庫会社監査役や経営審議会副会長を30年間も務めた。
移住10年ほどで、沖縄県出身で資産家の花城清安の娘、妻アリッセと結婚した。花城家には「琉球王朝の末裔」との噂があったので、もしやと思い、多羅間さんに尋ねると「違います」と一言の元に否定した。
「ブラジルで住むならここで選挙権を取ったほうが良い」と考え、70年頃に帰化した。
ブラジル東京都友会会長、県連副会長、文協副会長、学術振興会ブラジル協会副理事長などを歴任し、日伯をつなぐ懸け橋的な人材として常に交流に参加していた。
01年12月4日付の「雅子さま内親王ご出産」記念特集号の折り、多羅間さんは「女性天皇、おおいにけっこうじゃない。ちょっと憲法を変えるだけでしょう。私は歓迎です。女性の天皇は昔にもいた。女性天皇の時代には日本文化も栄えている。女王さまが誕生すれば日本人の意識も変わる。日本も変わるでしょう」と開明的な思想を披露している。
「さて、私は移民なんでしょうか?」
2013年に「戦後移民開始60周年の特集と一部として取材させてください」と申し込んだとき、多羅間さんは別に怒るわけではなく、ちょっと困ったような表情を浮かべて黙った。少し間をおいてから「さて、僕は移民なんでしょうか?」という質問で答えてきて、こちらが面食らった。「元皇族」という上流階級意識が、わずかにうかがえた一瞬だった。
皇籍離脱して、誰よりも早くブラジルに移住し、沖縄系の女性と結婚し、ブラジルに帰化し、女性天皇を称賛する。なにかを断ち切るかのような一連の行動をしてきた。元皇族としては、ある意味、過激なほどに自由主義的な気風、開明的な考え方が一貫されている。このあり方は、いったいどこに由来するのか。
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歴史的に見ると、祖父にあたる久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう、1824―1891)は、幕末の動乱期に「公武合体派」の領袖として活躍した人物だ。「公武合体派」とは朝廷(公)という伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を再編して既存の幕藩体制の強化することを目指した「穏健派」ともいえる一派だ。
幕末動乱では、幕府を改革して済ませようという穏健派「佐幕派」に対して、現状否定して幕府を倒さなければならないと考える急進派「討幕派」がどんどん台頭した。「公武合体派」は佐幕派の一部であり、最終的に討幕派に主導権を握られてしまう。「討幕派」の急先鋒は薩摩藩と長州藩で、最終的にこの勢力が力を握って徳川政権に大政奉還を迫り、明治維新をおこした。
そのため、久邇宮朝彦親王は宮家でありながらも明治の新政権とは距離をおく関係となった。だから明治天皇が御所を東京に移しても、久邇宮家は移住しなかった。
ウィキペディア「久邇宮朝彦親王」(15年4月22日参照)には《こうした経緯や扱いが、のちに久邇宮邦彦王や東久邇宮稔彦王(註=多羅間さんの父)ら子息たちの感情や行動に、複雑な影響を与えたとの指摘もある》と分析されている。
皇室随一の自由主義的思想を持つ父
東久邇宮稔彦王(註=多羅間さんの父)は1915年に明治天皇の第九皇女と結婚し、1920年にフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学し、《この留学時代、ブランスの自由な気風に馴染み、クロード・モネやクレマンソーと親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる》(ウィキペディア「東久邇宮稔彦王」15年4月20日参照)となる。
そんな父の影響を受けた多羅間さんだからこそ、自由主義的な生き方、移民を選んだのかもしれない。皇室の常で学習院に学んだ多羅間さんは、陸軍予科士官学校に入学した。当時、16歳だった多羅間さんの写真がいまも東京の自衛隊基地内に飾られている。慶応大学政治科を卒業した。
父はポツダム宣言受諾3日後、終戦後初の第43代内閣総理大臣(1945年8月17日―同10月9日)として担ぎ上げられた。降伏したとはいえ、まだ日本内外に陸海軍が展開している時であり、GHQが求めるこの内閣の最大の仕事は、日本軍の武装解除だった。皇室至上主義がいきわたっていた当時、それを短期間に命令実行できるのは「皇室内閣」しかないと思われていたようだ。
GHQとの意見の違いもあって短期間で辞任したが、その間、9月2日にミズーリ艦上で敗戦文書に調印された。同年11月に東久邇宮稔彦王は敗戦の責任をとるために、皇族の身分を離れる意向だと表明した。
実際に1947年10月、皇籍離脱し東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)を名乗った。この時、多羅間さんも離脱した。その後の生活は厳しく、宮家として持っていた財産を売り捌いて凌いだようだ。そんな苦しい離脱の4年後、華々しくブラジルに移住した。
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幕末期に祖父が「公武合体派」の領袖として活躍したことから、皇族でありながら明治新政府という本流からしりぞけられた歴史的流れ――。
戦後においてはGHQによって戦争終結の際、日本軍武装解除のために近代史初の「皇室内閣」の総理大臣となって終戦処理の陣頭指揮をとり、真っ先に皇籍離脱した流れ――。
日本近代史の重要な節目に顔を出すが、本流と対峙する皇族として担ぎ上げられる独特の活躍の仕方のように見える。そんな風に歴史的に利用されてしまう血筋に対する諦観のようなものが、多羅間さんには備わっていたのかもしれない。
もちろん、地球の反対側に移り住んだ〃貴種〃の人々が、みな貴種流離譚の小説のように活躍をしたわけではない。血筋ゆえに「普通の人以上の何かを持っているのでは」と期待される中で、一介の移民として生活し、彼らなりの幸せを南米の地に求めた生涯だった。(一部敬称略、深沢正雪記者)