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ふるさと=サンパウロ 梅田禎一

 『ふるさとは遠きにありて思うもの』
 そんな一句を初めて読んだのは少年期でしたが、その真意が解せず八十路を越えた現在になって何となく思い当たる様になりました。
 2才の年、父母と4人の姉と共に生まれた日本を離れブラジルへ移住。その翌年、母は5人の幼子と若い父を残し亡くなりました。その後の父は13才の長女を筆頭に家族のために一生懸命働き、二転三転と転耕しました。
 7年目、第二次世界大戦が始まる年、永住と決心したのか、サンパウロ市近郊スザノ市の福博村で土地を求めて一家落ち着きました。福博村は一大日本人の集団地で、村の中央にブラジル語小学校があり、各区には日本語学校もありました。小学校を終え上級学校志望でしたが、家庭の事情で叶わず、農作業に明け暮れる毎日でした。
 月日は経ち、思春期には村の青年会の一員となり、音楽会や会合、夜学といった楽しい時代でした。ですがそれもわずかの年月で、私が21才の春、父は一家の過労で56才で母の元へ逝きました。
 その父が死の間際でつぶやいた言葉が、「あゝ鵜沼の山が見える」でした。鵜沼とは、父が生まれ育った故郷なのです。死の間際、父の魂は既にふるさとへ帰っていったのでしょう。
 父の死後、農地を借地にしてサンパウロ市へ移りました。家庭を持ち、2人の子宝にも恵まれ、家族子孫のため懸命に働き、2人の子供は私の志望であった医大を卒業。現在、3人の孫も医大で勉学中です。
 私も視力を失い、第一線から引退して毎日2人だけの平和な日々を送っておりますが、はて、自分のふるさとはと思う時、走馬灯の様に瞼に浮ぶのは、少年時代に小鳥を追い、日曜日には友達と真っ裸で大川で泳いだあの地、福博村でした。
 ふるさとは遠きに在りて…ではなく、ふるさとは近くに在りて見えぬもの。と、この年になって感じました。
 「ふるさとや老いて鮮明野辺の花」