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セー広場を行進する様子(『目で見るブラジル日本移民の百年』百年史編纂委員会、08年、風響社、109頁)
セー広場を行進する様子(『目で見るブラジル日本移民の百年』百年史編纂委員会、08年、風響社、109頁)

終戦70周年記念=桜組挺身隊の記憶=カンピーナス 伊藤喜代子=第1回=子供からみた事件の内幕

 ちょうど60年前――終戦直後から始まった勝ち組系の動きの中でも最後の大規模なものが起きた。1955年5月16日にサンパウロ市のセー広場周辺で起きた「桜組挺身隊の街頭デモ」だ。53年5月頃からサントアンドレー市郊外の日系養鶏場に集まり、鶏舎で集団生活を始めた3百数十人の代表は、在聖総領事館に「民族総引き揚げ」を求めて談判を繰り返したが、受け入れられるはずもなく、業を煮やした彼らは55年2月3日早朝、サンパウロ市のセー広場から総領事館までデモ行進するという挙に出た。折しもカーニバルの時期で勘違いしたブラジル人は黒山の人だかりを作ったと邦字紙にある。4月にサンパウロ市保安局は共同生活の強制解散を命じ、バラバラになった。終戦から10年、ようやく勝ち負け騒動は終章を迎えた。その事件の内幕を、当時9歳だった伊藤喜代子さん=サンパウロ州カンピーナス市在住=に寄稿してもらった。(編集部)

 私はその時九歳だった。
 今、七十一歳だから六十二年も前の話だ。住み慣れた土地、友達、その他すべてと別れてある日突然にバストスを後にした。
 その前、父と母の会話の中によく団結、集結という言葉が出るのを耳にしていた。勝ち組同志の集まりが頻繁にあって、私も父についてその会合に行った事がある。私には意味は解らなかったが、とにかく、サンパウロへ行くのだと聞かされていた。そして、サントスに日本から迎えの船が来ると聞かされた。
 話が煮詰まっていた頃だろうか、十六歳だった姉はバストスを出るのを嫌がったようで、父は毎晩おそくまで説得していた。
 その日、バストスの集合場所に着くと、すでに一緒に行く四、五家族(もしかしたらもっといたかも知れない)も来ていた。私には、その時、生まれた土地を後にする感傷は何もなかった。それにしても、今思えば、三十近い娘や、息子を連れた家族もいたから、家長は六十歳を過ぎ、今までの生活をすべて捨てて行くのだから、そうとうの葛藤と決心だっただろう。と、臆病で決断力の鈍った七十歳の今の私は思う。
 とにかく、長い夜汽車の旅をして、サンパウロの駅に着いた。
 今でも鮮明に脳裏に残っているのは、サンパウロはどんよりした薄暗い空なんだなぁーと、鬱陶しかった事。あの頃のサンパウロは霧の街とさえ言われるくらいだったらしい。
 バストスの空はどこまでも青く、いつも澄み渡っていたから、ことさらそう感じたのだろう。
 これから先、子供が体験した桜組挺身隊での共同生活の様子を、記憶をたどりながら子供の目に映ったまま描いてみたい。(つづく)