また対外的にはコチア産業組合の支援を受けてローカルテレビを通じて、週1回、正午15分間の日本語講座を開設し、日本文化紹介に努めました。しかし、2年も経ずにコチア産業組合は経営不振に陥り、この日本語講座はやむなく中止となりました。
当時、若い教師4名は学生でした。その中には田舎に住んでいるバス通学の夜学生もおりました。バスを降りてからも泥道を歩かなければならず、深夜の帰宅は当然と言えば当然のことかも知れませんが、当時の本校の授業時間数、クラス編成から考えますと大変、過労であったと思います。
挫けそうになる心にむち打ちながら、明るく献身的に授業に授業に励んでくれた若き教師たち。その彼女たちを支えたものは何であったのか。今、振り返ってみますと、
第1に、運営組織の基盤が確立されていたこと。
第2に、自分たち若い教師によってドウラードス日本語モデル校を、どこにも負けない日本語学校に築き上げるのだという大きな夢と地元の皆さんの期待。
第3に、連合会会長の日本語教育に賭ける並々ならぬ情熱と教師たちへの温かい心遣い。
に支えられたのではないでしょうか。
相変わらず多忙な日々を送っていたある日、 SOCIGRAN大学教育学部の日系人教授から日本文化である折り紙を授業に取り入れたいので、週1日、午後3時間、講義日数5日、を受け持って欲しいという依頼を受けました。
早速、若い教師たちは折り紙の歴史、作品の意味、折り方などの授業を用意周到に準備し、教師2名、助手として上級生3~4名が担当しました。
受講生は、教育学部の学生以外に市内の小中学校の教師が参加しましたので、毎回、40~50名でした。
余談になりますが、受講生の中には受講後、それぞれの小中学校の生徒達に教え、受講料として1~2レアルを生徒から徴収し、そのお金で不足している学校の掃除道具や教材を購入した先生もいました。
それ以来、ドウラードス地域は折り紙の人気が衰えることなく、今日では結婚式場や誕生パーティなどで豪華に飾られるようになりました。
不況の嵐の中で
開校当初の生徒数は220名と滑り出しは大変好調でしたが、その数の約半分が日本就労のための学習者と言えるかもしれません。
翌年は144名と急激に減少し運営面で大変厳しい状態となりました。それでもモデル校としての機能を推し進めるためには、教職員の削減は避けなければなりません。しかし、加えてハイパーインフレ、旱魃による農家の不況は学校経営にも直撃し、教師を半分に削減するという案が父兄会に提出されました。不安な日々を送る教師の心も自然に日本へ傾いていくとき、これをどう食い止めるのかが、私に課せられた大きな試練でした。
連合会が目指す人材の育成に情熱をかけて、必死に頑張っている元教え子たち、モデル校を支えていくために重要な教師歴10数年のベテラン教師、日本の幼稚園から来て下さったモンテッソーリ幼児教育のベテラン保母さん。連合会が目指す人材育成の場であることを念頭に置くとき、誰一人として手放すことのできない大切な宝物です。では、どうすれば良いのか。頭の中は空転するばかりでした。