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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(7)

 『百年の水流』は、勝ち負け抗争以外の記事ではコチア、スール、南銀の落城の内幕を紹介したことに関し、多くの読者から「これでよく判った」という謝辞が寄せられた。この落城では、莫大な損害を受けたり人生を狂わせたりした人が無数に発生した。しかし何故落城したかについて、得心の行く説明が当事者からなかった。
 せめて、それを知りたい──という痛切な願いに応えられたと思う。南銀の身売りで財産を半分に減らしてしまったという人が「アナタの本を読んだ」といって筆者に電話をくれ、延々と、その悔しさ、怒りを語り続けた……その声が今も筆者の耳の奥に残っている。
 このほか、日系社会百年の歴史の流れを、水面下深く透視すべく努力して、記事を書いたことが読者の参考になったようである。
 これらの成果も、いずれも協力者のお陰で実現したことである。協力者との合作である。
 感謝と成果報告は、ここまでとして、本題の開発前線であるが──。
 筆者は当初、その前線であった地方を総て取り上げる──という企画を立てた。しかし1回や2回、現地を訪れても、表面的なことしか判らず、何度も通うには、行くべき所が多すぎ、かつ遠すぎることが判った。
 そこで幾つかの地方あるいは地域(ムニシピオ)を取材、記事にし、できるだけ、その数を増やすという方法をとることにした。最初に北パラナを選んだ。これは、この地方が日系社会史上、最も代表的な開発前線であったからである。(参考・引用文献は、文中で記すもの以外は、各章末に掲載)


  序

 今では知る人も少なくなっているが、往年、北パラナは輝けるニュー・フロンティアであった。その開発着手は、十九世紀中頃のことである。つまり西暦1500年のブラジル大陸発見以来、350年間、放置されていたわけである。そこは遠望すると、鬱蒼たる原始林で覆われ、巨木が亭々と空に聳えていた。近づいて内部を窺うと、無数の樹々の幹や枝に蔓が絡み、雑草が密生、人間の進入を拒否していた。イヤ、実は人間は居た。インヂオである。一資料の表現を借用すれば「赤裸の蛮人が棲息」していた。
 1851年、時の皇帝ドン・ペドロ二世が、チバジー河の東岸に、コロニア・ミリタール(軍事用の植民地)を造った。これがジャタイである。パラグアイとの戦争に備えて、交通路を開鑿あるいは発見するための拠点であった。次いで、河の対岸にインヂオの教化村をつくり、そこにカトリックの神父を招いた。(ジャタイ=現在のジャタイジーニョ)
 やがて一つの耳寄りな噂が生まれた。この地方の大樹海の下には、驚嘆すべき豊饒な大地が眠っている──というのである。噂は風が運ぶ様に他地方にも伝わった。それを耳にした開拓志願者たちの入植が始まった。彼らはミナス、リオ、サンパウロからやってきてシャバンテス湖の西側つまりパラナパネマ河の南側に入植した。
 その様は、例えばミナスから来たあるファゼンデイロの場合、家族、親戚のほかに友人たちも加わっており、奴隷と多数のロバが荷物を背にしていた。一カ月もかけて旅をしてきた。到着すると樹林を伐り拓き農場をつくった。
 しかし、その生産量はささやかなものであった。実はこの地方は、当時は未だ僻陬の地であり、遠い市場への大量輸送ができなかったのである。二十世紀に入って、鉄道が建設されると、それが可能となり生産量は急増した。主産業はカフェーであった。そして40年後には、北パラナはブラジル一……ということは世界一のカフェー生産地帯になっていた。広大にして太古以来の原始林が育んだ神秘的な地力が生んだ奇跡であった。
 この北パラナという開発前線に、鉄道建設の前後から、日本人が姿を現しブラジル人、英国人、ドイツ人、イタリア人、その他と伍してカフェーを主に綿、穀物の生産・流通・加工……つまり新世界を、ここに建設するための諸々の事業に参画した。
 その日本人の中で、やがて北パラナ屈指の事業家となったある人物が、晩年の一日、青空を見上げながら、こう呟いたという。
 「事業とは、あの白い雲のようなものだ……」
     ◎
 これは、パラナ州の日本移民史を生涯書き続けた牛窪襄の著書に出ていた小話だが、その事業家は何を言おうとしたのだろうか? 男というものは、青空高く浮かぶ白い雲に誘われる様に、事業を追う──そういうロマンを語ろうとしたのだろうか。あるいは、事業というものは、その多くが白い雲の様に、フト気がつくと消えてしまっている──という無常さ空しさを悟って、それを口にしたのだろうか。それとも、もっと別の意味だろうか……。(つづく)