会合や宴席、取材などで、日系一世ですでにリタイアされた方にお会いする機会が時々あるが、みなさんお元気で、バイタリティに溢れ、お話も面白く、個性が強く、圧倒されることが多い。
よくよく考えると、それもそのはずで、ほとんどの方々が事業主であり、分野は様々だが、この難しいブラジル市場、社会で、ビジネスで成功をされて、かつ見事に次世代に引き継がれた方々である。
ちょうど6月18日は移民の日であったが、当然107年前に第1回移民で渡伯された方々の大半も、農業で身を立てようとされたわけだ。そういう意味でも、日系一世の方々は、同じ日本人としてブラジルへ進出をして、この難しい市場と格闘をした大先輩である。
私は、1990年代の後半に、すでに故人となられたが、アマゾンや半乾燥地帯の専門家で、G7のアマゾン保護プロジェクトの国際諮問委員もされていた元筑波大学(当時は東京成徳大学)西澤利栄教授が中心となった、ブラジルのカーチンガーと呼ばれる半乾燥地帯とアマゾンの熱帯湿潤気候における農業や環境の調査プロジェクトにお供をさせていただき、約3年間かけてかなりの数の日系農家を訪問させていただいた。
そして、一世の方の研究熱心さ、不屈の開拓者魂、起業家精神に感嘆したのを昨日のように鮮明に覚えている。
まず、ペルナンブッコ州とバイア州の境にあるペトロリーナ・ジュアゼイロでは、ぶどうとマンゴが栽培されているが、もともと入植した時は、作物などは育たないと言われた不毛の大地であった。そこで塩害に悩まされながら、暗渠排水という灌漑の仕組みを導入するとともに、自らブラジル農牧公社(EMBRAPA)などに出入りして文献を読み漁り、日本でも色々なところを訪問して、最新の情報を収集する中で、ついにリン酸をうまく使えば早く受粉できることを突き止め、それにより二毛作が可能となり、飛躍的に収穫高をアップさせることができた。
一方、アマゾン最大の都市ベレンから車で当時6時間ぐらいかかったところにあるアマゾン移民の入植地トメアスー。今日本でも流行っているアサイーは、ここの農業組合から出荷されている。トメアスーは、かつてはピメンタ(胡椒)栽培で大成功をし、ベレンの街にはピメンタ御殿がたくさん建ったそうだ。
しかし、ピメンタは10年に1回ぐらいのサイクルで、苗が原因不明の病気になり全滅するらしい。その原因は現代科学においても解明されていない。原因がわからない中で、どうやったら病気にならないか、研究と試行錯誤を繰り返し、自然の摂理に反して単一種を大量に植えることに原因があると悟り、なるべく自然に近い状態で、様々な種類を同じ場所で育てるアグロフォレストリーにたどり着いた。
アグロフォレストリーは、大量栽培には適さず、収穫の手間もかかるわけだが、見事に病気を克服し、安定的に供給できるようになり、アサイーというヒット商品につながった。
まさに、ここにブラジルでの成功の原型がある。自社の都合ではなく、まずはブラジル市場という土壌で何が育つかを徹底的に調べる。言葉もよくわからない中で必死に格闘しながら、色々な人の協力も得ながら試行錯誤をする。そして、固定観念を持たずに、イノベーションにトライするチャレンジ精神を持つ。そしてだれがなんと言おうと不屈の精神でやり切る。しかし成果は独占せずに、オープンにし、市場をともに開拓する。
ブラジルでビジネスを成功させるお手本は身近にいたのだ。