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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(8)

 一章  カンバラー

 カフェーは血であり命であった

 往年、カフェーはブラジルを支えていた。国内で流通する貨幣の殆どは直接・間接にカフェーと関連して動いていた。それを見事に表現する名言があった。こうである。
 「カフェーは、ブラジルの血であり、命ですらある」
 広大なカフェザールを経営するファゼンデイロの懐には、黄金が流れ込んだ。カフェーは「オウロ・ヴェルジ」と呼ばれた。緑の黄金の意味である。その栽培は十八世紀末、首都リオデジャネイロの近郊で始まった。以後、ファゼンデイロたちは、貪欲に栽培面積を拡大した。気候が適し地形が良く豊饒な土地を求めて──。しかし、肥料を施さぬ略奪農法であったため、やがて土は疲れ果てた。すると彼らは、さらに新しい適地を求めて移動した。
 栽培地はパライーバ流域に沿って南西へ拡がり、その最先端はサンパウロ州のタウバテ地方に達した。1830年代のことである。その後さらに西へ延び、1850年代にはカンピーナス地方が主産地となった。しかし、ここにも止まらず北上、20年後には、リベイロン・プレット地方が新たな大生産地となっていた。そこはテーラ・ロッシァと呼ばれる赤色の沃土が多く、気候、地形、標高も望ましく、これ以上の適地はないだろう──とすら言われた。(カンピーナスとリベイロン・プレットという地名は、後年の呼称。開発当初は、別名の鄙びた集落があったに過ぎない)
 1908年の笠戸丸に始まる日本移民も、多くは、このリベイロン・プレット地方のファゼンダに配耕された。しかし実は、その頃ここも、略奪農法による土地の疲弊が始まっていた。機敏なファゼンデイロたちは、すでに別の新適地を探し始めていた。(ファゼンダ、ファゼンデイロ=本稿では総て大農場、大農場主の意味で使用)


バルボーザ少佐、乗り込む

 その機敏なファゼンデイロたちの中に、アントニオ・バルボーザという男が居た。規模、質ともに一級と評されるファゼンダを経営していた。が、働き盛りの、この大兵肥満の野心家は、さらに世界的なファゼンダを造りたい──と夢を膨らませていた。
 彼は1863年の生まれというから、この頃、四十代の半ば過ぎであったことになる。ポルトガル語の資料類は、彼に「マジョ―ル」という肩書きをつけている。少佐の意である。軍歴には触れていず、正確な処は判らないが、いかにも軍人らしい決断力と行動力の持ち主であった。
 その頃、新地を求めるファゼンデイロたちが関心を抱いたのは、鉄道建設が進んでいたサンパウロ州西部であった。しかしバルボーザは、その南方、大河パラナパネマの向こう側、北パラナの大原始林に着眼していた。その土地の肥沃さに関する噂に、強い興味を抱いたのである。彼は、北パラナには生産物を大量に市場に運ぶ手段がないことは、承知していた。それでも着眼したのは(線路を敷き汽車を走らせればよい)と考えていたからである。
 無論、それには莫大な資金を要する。いかに有力とはいえ、一ファゼンデイロには重荷の筈であった。しかし彼は1910年、下見のため現地に乗り込んだ。樹海の下の、土の肥沃度は正に噂通りで、開拓初期のリベイロン・プレット以上の豊饒なテーラ・ロッシァだった。標高、地形も申し分なかった。気候に関しては、後に問題が発生したが……。

土そのものが肥料

 ちなみに北パラナの、そのテーラ・ロッシァについては「土そのものが肥料である」とすら言われた。そこで後年、こんな珍話が生まれた。
 サンパウロ市の一日本人肥料商が、カミニョンで北パラナへ通い、その土を掘って持ち帰り、近郊の農業者に肥料として販売した。実によく売れた。それほど効目があったのだ。ところが、これが邦字新聞にばれ「土を肥料と言って、売っている」と攻撃された。その肥料商を継いだ二代目はそれを負い目に感じ、生涯、日系社会のために尽くし続けた。(つづく)