彼の知人のなかにも千恵とおなじ病気のひとがいて、もう十年からインシュリーナを打ちつづけているという。毎日欠かせない注射も、無為の彼にはよい日課になった。というよりは太一の心にあるはずみがついているのを自覚して、近ごろとみに神経過敏になっている妻に見破られないかと、ギョッーとなるときがある。
思い返してみると、千恵にーあんたはわたしがこんな病気にかかったのを、喜んでいるのでしょうーと、言われても否定できかねる心境にあったのも事実だったが、それは千恵がもうすこしよわい女になるのを、彼が望んでいたからではなかっただろうか。
そのような折にRという青年が、家で寝起きするようになった。嫁の甥にあたる青年で、父の仕事をたすけていたが、ゆくゆくは店をやりたい、と叔父にたのみ、丈二の店で働くようになった。はじめは千恵も心よく迎えたが、やはり親戚の者といっても、松山家にとっては異質の者であった。
田舎そだちの故ではないだろうが、人間が無愛想で、高慢なところがあり、躾もなにもなかった。とくに食い物にかたよっていて、油飯、フェジョン( 煮豆)に肉のほかはいっさい食べようとはしなかった。千恵もはじめのうちは宥めすかして、家の風に馴らそうとしたが、相手はとても荒馬のような鼻息で、千恵の手にはおえそうもなかった。
その場面の一端をここに記述すれば、Rは帰宅するなり台所にはいってきて、
「婆ちゃん、きょうはなにがある」
ときき、自分の好きな料理であれば、といっても三品しかないが、
「やっー」
Rは奇声をあげて、陶器の皿を宙にまわすのであった。そして皿にご飯をもり、フェジョンをたっぷりとかけ、大皿にもってある焼肉を上から一切れか二切れをとるならまだしもガルホ(フオーク)で下からかきまわすのを見て、はじめから虫のすかない青年だったので、千恵はカッーとなって、
「上も下もおなじだよ、はじめの者が上からとるのが作法というものよ、まだパトロンも席についてないのに、使用人のくせに生意気だ」
頭にきた千恵がポ語でRをやりこめた。このような日用語になると、千恵は太一とちがって、二世、三世にまけないほど、思いのままに意思の表示ができたのである。
それにRが壁にもたれて、立ち食いをやるのも気にいらなかった。ーH子さんはRをどんな育てかたをしたのかしらん、躾もなにもなくて、見ていると下層階級のやるとおりじゃやないのーと、憤懣やるかたないといったふうで、太一の同意をもとめたが、いつも押されぎみの彼は胸のなかでニヤリとした。形はちがえ自分の若い頃とRは似ていたからであった。この勝負はおもしろいと、千恵が知れば怒るような考えを太一はしていた。不平といえば千恵にとって夫はいちばんのルサンチマンの相手ではなかったのか。
ところがこの対決は長くはつづかなかった。Rが日本へ出稼ぎにゆくことになったからである。千恵はーあの我が儘者が、日本でみっちりしごかれたらよいーと、憎まれ口をいった。
後日、太一が回顧すると、千恵はRとのかかわりで、病気を昂進させたようであった。
日がたつにつれて、千恵は腰や下腹の痛みを訴えるようになった。寝台から起きるときはうめきさえした。それでも起きてしまえば、家族の食事の支度はしていたのであった。
このような日常がすぎてゆくある日のこと、トイレから千恵の叫ぶ声がするので、太一が急いでかけつけてみると、
「こんなものがでた」
と言う千恵の顔色は変わっていた。太一が後架をみおろすと、卵白のような粘液にまかれて、どす黒い大便が底にしずんでいた。