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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(12)

コーヒーの実採集作業の様子(『上野米蔵伝』より)

コーヒーの実採集作業の様子(『上野米蔵伝』より)

 バルボーザは息子たちと土地販売会社を設立、実際に売り始めた。やがて日本人が、その一部を買うことになる。
 この鉄道会社の譲渡交渉で、両者の仲介をしたのが、メスキッタであった。交渉成立で彼には手数料が入ったが、少年時代からの夢であった建設工事を請け負うことは、残念ながら出来なかった。新経営陣がロンドンの業者を選んだからである。彼は一旦、北パラナを去った。が、諦めず、会社との連絡を取り続けた。そして十数年後、大きなチャンスを掴むことになる。

賑わう駅周辺

 1929年、鉄道工事は再開された。線路は1930年バンデイランテス、1931年サンタ・マリアナ、セント・イ・ビンチ・シンコ(現コルネーリオ・プロコッピオ)、1932年ピリアニット(現ウライー)、ジャタイと延び、1935年にはロンドリーナに達する。
 線路が敷かれ駅ができると、周辺は賑わった。汽車がモクモクと黒煙を吐きながら、やって来た。カランカランと鐘を鳴らしながら滑り込んだ。周辺では建築の槌音が響き、カミニョン、大小の荷馬車が往き来し、エンジンの音、轍の軋み、馬の嘶きが絶えなかった。
 鍔広の帽子、ガイゼル髭、乗馬ズボン、長靴の男たちが、山刀や拳銃を腰に歩いていた。森林伐採の請負師だった。暇があると、居酒屋で椅子に腰掛け、縄煙草をナイフで削ってミーリョの皮に巻いて吸いながら、長々と雑談していた。
 駅の近くにある板小屋の店は白人、黒人、半黒そして日本人で一杯だった。買物が済むと、袋を二つに結んで馬に背負わせて帰って行った。場末には売春小屋が増え、夜になるとランプが灯った。
 時のゼッツリオ・ヴァルガス革命政権が1932年、カフェー植付け禁止令を布告した。過剰生産によって起きた国際市況の暴落に対処するためだった。が、この時、パラナ州は対象外とされた。これが北パラナへの入植ブームを惹き起した。駅周辺の賑わいは一段と増した。

離散

 先に記した様に、1912年、北パラナでは最初の日本人が、リベイロン・クラーロのモンテ・クラーロというファゼンダに入った。加藤金助という福島県人だった。翌1913年に3家族が続いた。1914年、6家族が、サンパウロ市の日本の移民会社から配耕されてきた。1918年には、就労者は38家族を数えていた。
 彼らは何れも、サンパウロ州ソロカバナ線のシャバンテス駅で降り、大河パラナパネマをバルサ(大きな筏式の渡船)で渡ってきた。ファゼンダは、風景は美しかったが、労働と生活は苦汁に満ちていた。その上、日用品の買物も、ままならぬ不便さであった。入植者は殆どが離散した。
 残留者の加藤金助、大本義美、高橋平が1923年、近くのセーラ・グランデという所に土地を入手し、営農を始めた。やがて大本はカミニョンを買い、羨望の的となった。加藤金助は、戦後も長くこの地で健在であったが、この人が没すると、リベイロン・クラーロの邦人の往事を知る人は居なくなり、北パラナ開発史上、霞んだ存在となってしまった。
 
 錦衣帰郷

 リベイロン・クラーロに比較、カンバラーの邦人社会のことは、やや明らかである。資料類も幾らかはある。バルボーザ、ブーグレという個性ある大物とファゼンダが存在し、多数の日本移民が彼に、そこで使われ、種々の話題が生まれたことにもよろう。
 ブーグレへ、初めて日本人がやってきたのは、これも既述の様に1914年である。2家族がソロカバナ線方面から移って来た。翌年、ブーグレの総支配人がリベイロン・プレット地方のファゼンダから、10家族の日本移民を引き抜いてきた。その中に上野福太郎という福岡県人とその家族がいた。(つづく)