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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(15)

1927年の上野一家(『上野米蔵伝』より)

1927年の上野一家(『上野米蔵伝』より)

 1926年、北パラナ日本人会が設立された。米蔵は副会長に選ばれ、翌年、北パラナ連合日本人会と改称した時、会長になった。30歳を少し越したばかりであった。
 「北パラナに上野米蔵あり」と、サンパウロ州の邦人社会にまで知れ渡った。会長職は、以後、なんと32年間も務めることになる。
 しかし、アルマゼンの仕事は、何故、そんなに調子良く行ったのだろうか? これは種々、運に恵まれたからであろう。 まず、最初、自営農を目指したが、思わしい土地が見つからなかった。これが却って良かった。
 次に、彼が店を開いた頃、この地域では日本人が急増していた。ブーグレやその他のファゼンダの労務者である。日本人の植民地もできていた。彼らは、間作あるいは自営でつくった農産物を、非日系のアルマゼンに売るのは、気が進まなかった。そこに米蔵が、アルマゼンを開いたのである。
 先に、アルマゼンを営む邦人の中には、同胞から憎まれる者がいた──と書いたが、米蔵は人の世話を実によくみた。夫人の人柄も良かった。人気は上々だった。客の方から頼ってきた。
 無論、上野商会には、非日系の客もいたが、日系が主力であった。(後年の勝ち負け抗争の時は、米蔵は勝ち組だった)
 さらに、開店二年後には、鉄道の駅が近くにできた。カミニョンで農産物を駅まで運べば、量はいくら多くても、遠い市場へ運んでくれた。これで増々繁盛した。
 運に恵まれれば、商売というものは魔法の様な働きをする。

七転び八起き

 しかし幸運というものはそう長続きするものではない。米蔵にも、その時がきた。1929年の世界恐慌では、大損害を受けた。仕入れておいたカフェーが大暴落したのである。1932年の内戦の折は、商品の大半と二台あったカミニョンを、兵士に奪われた。
 内戦とはサンパウロ州がリオのゼッツリオ・ヴァルガス革命政権に叛旗を翻して起した紛争のことで、サンパウロ州では、これを護憲革命と名付けた。
 この時、パラナ州を含む南伯三州はゼッツリオ・ヴァルガス側につき、その州軍がパラナパネマの南岸に集結、北岸のサンパウロ州軍と対峙した。橋は爆破された。結果的に戦闘はなかったが、代わりに州軍の兵士による徴発と称する略奪が、アチコチで頻発した。米蔵は、その被害に遭ったのである。
 その年、米蔵は胃潰瘍で大量に喀血、二カ月間の絶対安静を医者から命じられた。それでも動き出すので、寝台に縛り付けられた。世間では「上野さんも駄目らしい」と噂した。病因はピンガの暴飲だった。毎日1リットル瓶を空にしていた。時には仲間と呑み比べをやり、大瓶を置いて、コップ一杯のピンガを、交互に呑み干しながら相手の頬っぺたを殴り、それを繰り返した。頬っぺたは、どちらも赤く腫れ上がった。何故そんな無茶をしたのか──は誰も知らなかった。恐らくは、仕事からくる緊張感や苦痛、疲れを癒そうとしたのであろう。
 療養期間は1年半に及んだため、アルマゼンは閉店となった。回復後は酒を断ち、綿の仲買を始めた。綿はトゥレス・バーラス移住地で栽培が成功、北パラナ各地に広がり始めていた。米蔵はこの波を捕らえた。
 なお同移住地は、ブラ拓(日本政府系の海外移住組合連合会の在伯機関)が1932年、カンバラーの西南西100キロほどの所に造った広大な入植地である。(移住地とは植民地の新語)
 米蔵は綿の仲買をしながら、農産物の加工に次々手を出した。1936年頃からゴマの搾油、味噌・醤油製造、生糸生産、カフェー精選……と。日系、非日系の友人との共同事業が殆どであった。しかし悉く失敗した。トレス・バーラスで精綿工場を起したこともある。地元の産業組合との共同経営だった。米蔵が社長を務めたが、これも1年で終わった。
 失敗の原因は、搾油は原料の胡麻の畑に害虫が入り、味噌・醤油は市場が小さ過ぎ、生糸は品質に問題が生じ、カフェーの精選は第二次世界大戦で輸出不振となり、製綿は品質が劣り……と様々だった。
 1944年、トゥレス・バーラス移住地の市街地は周辺の農業地帯の大半と共に、ムニシピオになった。この時、名称はアサイとなった。そのアサイで、米蔵は1948年、ボトランチンと共営で、再び精綿工場を経営、ようやく成功した。1957年、ボトランチンが手を引き、独自の経営となった。これがアサイ綿花株である。米蔵は62歳になっていた。この頃から、この地域の綿は隆盛期に入り、アサイ綿花も大きく伸びた。
 米蔵は晩年「自分の人生は七転び八起きだった」と述懐している。(つづく)