「(冬のある日)底冷えのする寒さとなった。原始林に沈む夕陽が真っ赤だった。空は澄み切っていた。霜の前触れだった。山も畏怖する様に鳴りをひそめた。
霜! 人々は恐怖に脅えた。朝、全山が白銀に包まれていた。真っ赤な朝日が原始林から昇り、中天にかかり、落ちて行く頃には、昨日まで青々としていたカフェーの葉は、褐色に萎え、カラカラに枯れはて……」
北パラナの強みは、既述の様に「太古以来の原始林が培った神秘的な地力」だった。しかし同時に恐るべき敵が存在した。霜である。
筆者はバルボーザの北パラナ入りの項で「……気候に関しては、後に問題が発生したが……」と書いた。その問題というのが、これである。ともかく、如何に名門ファゼンダでも、降霜の前には無力に近かった。
安瀬盛次、志を立てて……
南米銀行は1940年にブラ拓によって創立された。が、戦時中、ブラジル政府の干渉で資本と役員を、内国化させられた。つまり非日系人のものになってしまった。ただ営業成績は悪く、終戦時には死に体になっていた。それを買い戻して再建したわけだが、その時、日系社会の人々が株式を引き受けるという形で醵金した。
同時期、カフェーは大好況期に入り、業界は沸き立っていた。それに便乗、南銀はカフェー生産地帯で株主を募集した。北パラナでも邦人の多くが、これに応じた。当然、南銀はこの地方に営業網を張った。
カンバラーの近くではオウリーニョスに支店、バンデイランテスに代理店を置いた。自然、ブーグレとも取引が生まれた。その過程で、融資をしたところ、先方が相次ぐ降霜で資金繰りが狂って清算できなくなり、抵当物件のファゼンダを受取ることになった──という次第であった。
しかし名門といっても霜で荒廃しており、簡単に転売できる筈もなく、むしろ持て余した。ともかく南銀としては、このファゼンダを再生させる必要があった。相当の資金と技術が必要になる。その再生の仕事を引き受けたのが、副頭取であった安瀬盛次(あんぜ・もりじ)という福島県人である。
安瀬は、サンパウロ州ノロエステ線の中心都市アラサツーバ界隈でのし上がった事業家であった。当時、この国の邦人社会では大成功者の一人に数えられていた。ただし、成功は農業によるものではない。アルマゼン、特に仲買で財を成した。上野米蔵と同じである。時期的にも同じ頃である。
彼の一生は、戦前、多く編まれた立志伝の筋書きによく似ている。
1892(明25)年、福島県の一寒村の農家に生まれた。高等小学校を出て家業に従事したが、向学心・向上心が強く、福島市に出て教員養成塾に学び、村に帰って小学校で教鞭をとった。ところが生徒の多くが登校して来ない。家の手伝いのためであった。農家は連年の凶作で疲弊していた。ここで安瀬は、「村は活路を海外に求めるべきである。余剰人口を移住させ、その送金によって村の経済を助ける。そのために先ず自分が率先してブラジルに渡る。もし彼の国が有望ならば、村人を呼び……」と志を立てて1914年に移住してきた。22歳であった。
リベイロン・プレットの近く、有名なファゼンダ・グァタパラを振出しに、各地を転々とした。1916年結婚してアララクアラ線のファゼンダで就労中、間作に玉葱とニンニクを作り、1コントの利益を掴んだ。Ⅰコントといえば、当時の移民には大金であった。
1918年、夫婦はアラサツーバに移り、駅前で板製の小屋を借り、炭酸水をつくって商う小さな店を開いた。
このアラサツーバの南隣に、アグア・リンパという所があり、妻の叔父がアルマゼンを営んでいた。これが放胆過ぎる商売をやって失敗、50コントスという負債を残して逐電してしまった。債権者会議が開かれたが、名案は出ない。
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