1935年開校とのことですが、それより以前に始まった日本語学校が何ケ所も有った様です。しかし、現在までも続いてるのは他に少ないのではないかと思われます。特に第二次大戦中の40年から46年までは外国語の検閲が厳しく、ほとんどの日語校は閉鎖されたそうです。
イタぺセリカ日語学校の場合、官憲責任者が親日的だった事も幸いして、何とか続けられたとの事。校舎で公然と授業出来ないので、必要に応じて会員の倉庫をあちこちと先生が出張して続けたとの苦労話を、当時の会長だったT氏やA氏から聞かされたのを思い出します。確かに当時7歳から10歳位だった2世の人達が今でも邦字紙を購読されているのは、苦労話の証と感じた次第です。
1970年代後半期、私は学務委員を務めておりました。当時のD会長に頼まれたのですが、私の子供は日語校では勉強していなかったので断りました。ところが、生徒数は結構多いのに月謝が安い為、学校の運営が困難になってる実情を主に前任のF先生から説明されたのです。聖職者といえども生活がある。十分な報酬を払えない為、S先生は副業しながら授業をしてる状態とのこと。結局、月謝値上げの憎まれ役を引き受けさせられました。
確かに他の塾や私立学校の月謝と比較すると20パーセント程度、不足分は会の本会計で補っていたのですが、限界があります。情況を父兄の人達に説明して、月謝をひとまず2倍に値上げすることが出来ました。
この問題はここだけに限らず、どこの学校でも問題になってる事を見聞きしていました。故国からの援助が出ないものかと調べた事を記憶しております。しかし、日本は欧米等の先進国と比較すると文化活動への投資に消極的でした。
嘉永時代に黒船来航時の様な醜態を世間に曝し、まったく国際感覚が幼稚なる国と誤解されました。経済的企業の進出だけでなく文化への投資の活性化は、長い目で日本の将来の為でもあります。
そうした意味で、このブラジルは投資効果が高い国と思われます。日系人口150万人、それもあらゆる分野で活躍しており、この地ほど投資効率効果の良い国は他に無いでしょう。この様な事に気付く為政者が現れないのを残念に思います。
話が横道にそれましたが、イタぺセリカでは 79年に、それまで任意団体だった日本人会をセントロ・エスポルチーボ・エ・クルツラール・デ・イタペセリカと正式に公共団体として登録され、18代目にして初めて2世会長の誕生です。
その後も紆余曲折ありながらも、日本文化の潤滑油となる日本語を習う学校は続いて居ります。80周年を祝うと共に、これから90周年、100周年と益々盛んに続けられる事を祈念致す次第です。
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