「感無量。言葉になりません」――平野運平が死んだ年にここで生まれ、現在まで住み続ける平川秀雄さん(96、二世)は、そう言葉を詰まらせた。カフェランジア市の「平野植民地」の百周年組織委員会(池田清美委員長)は2日、約500人の出席者を集め、盛大に記念法要と百周年式典を挙行した。大農場主からコロノ(農業労働者)として搾取されていた邦人有志が、平野運平の呼びかけで参集し、ノロエステ線開拓の橋頭堡となった最初の自作農集団地だ。
最盛期の40、50年代には300家族以上がひしめいた同植民地だが、現在は12家族23人だけ。500人の受け入れ準備に、年初から奔走してきた。旧会館につなげて、それに倍するサロンを新設し、大人数が座れるテーブルを置いた。
平野農村文化体育協会の森部久会長らが案内し、当日朝8時から中前隆博在聖総領事、ノロエステ連合日伯文化協会の白石一資会長、カフェランジア市のルイス・オタビオ・カルバーリョ市長らは、最初の入植地であるドラード川沿いの1番ロッテの「開拓犠牲者の碑」を参拝して献花した。入植初年に約80人ものマラリア犠牲者を出し、荼毘に附した地だ。さらに平野が実際に住んでいた9番ロッテに作られた日本人墓地で彼の墓に焼香した。
続いて9時から13番ロッテにある平安山光明寺の境内で日ブラジル国旗掲揚、鎮魂碑参拝、記念法要が行われた。
本堂に入ると、矢野正勝宗門代表は「悲痛の血と涙、汗を流して開拓した偉業、その信念と努力、忍耐に対し、心から敬意を表し、勇敢な指導者、祖人・平野運平先生や幾多の先駆者の慰霊をしたい」と挨拶した。
西本願寺の梶原義教総長、梶原俊栄導師、岡山智浄導師が読経する中、全員が焼香した。総長は法話で、多くのマラリアなどによる犠牲者を弔うためにこの寺が建立された謂れを説明し、先人の気持ちを織り込んで作詞した「移民の歌」を全員で合唱した。
記念式典では、池田組織委員長が「この小家族で記念祝典が挙行できますことは、先亡者に残して頂いた偉業のおかげ」と感謝し、矢野宗門代表が鎮魂碑に刻まれた植民地の由来(有吉明大使著)を読み上げた。
来賓祝辞で白石連合会長は「次の200周年に向けての一歩」と激励し、ブラジル日本文化福祉協会の呉屋春美会長も「新サロンを作るなど歴史への熱い想いが感じられる」と賞賛した。カルヴァーリョ市長も「9月の市芸術祭(CAFEARTES)のテーマは100年の格闘、栄光、伝統。平野の歴史を市民に知ってもらう」と語った。中前総領事は「高い志を感じる。一人の日本人としてとても誇らしい気持ち」との賛辞を贈った。
同地在住の重松茂さん(61、二世)は「素晴らしい一日だった。1月から毎日、新サロンやあちこちの改修でペドレイロ(左官)を指示して準備が大変だったが、無事に済んでよかった」と胸をなでおろしていた。
当日、次の各功労者に市議会や連邦議会(飯星ワルテル下議)から感謝状や記念品が贈与された。会長経験者の平川秀雄、矢野正勝、森部久、故川市英美(川市清美代理)、婦人会長経験者の矢野民子、森部澄子、池田春美、池田清美委員長、高齢者として平川秀雄(96)、平川良江(90)、矢野民子(92)、鈴木和壽(85)、鈴木英子(86)、川上幸子(83)、杉山茂(82)、先発隊の山下定一家(敬称略)。
■ひとマチ点描■二世最高齢の一人、平川さん
両親は1914年渡伯で共に広島県出身、平川秀雄さん(96、二世)は19年4月に平野植民地で生まれた。その年の2月6日に平野運平(享年34)が亡くなった。「こんな日を迎えられるとは」と式典後に喜んだ。
妻の良江さん(90)も健在。二人の長生きの秘訣を家族に尋ねると、「特に何にもないんですよ」と笑った。
「最初はマラリアやガファニョット(バッタ)の大群が襲ってきて大変だったというが、僕が生まれた時にはそうでもなかった。子供の頃は相撲が盛んでね」と懐かしそうに目を細めたかと思うと、スタスタと昼食会場へ歩いていった。(深)
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平野植民地入植100周年会場では、「100年というのはただ事じゃない」「たった23人で、よくこれだけ」という声があちこちから聞かれた。サンパウロ市在住の池田重子さん(72、平野生まれ、二世)は夫も平野生まれ。コーヒー、養鶏、養蚕もやったが、結局1988年に出聖したとか。「今でも懐かしくて、懐かしくて」と足しげく通っているという。
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カフェランジア市の市長、同市議会議長始め市議12人中、6人が百周年式典に出席するなど、地元にも根付いている様子。カルロス・カマルゴ市議会議長は、「平野のヤキソバ祭りへの市民の参加は年々増えている」と親しみの情を示した。カフェランジア(コーヒーの里)という市名だが現在、カフェ園はほぼない。見渡す限りのカンナ(サトウキビ)畑。「市名をカンナランジアに変えなきゃな」と笑う声が聞こえた。