8歳で農作業
少年は、日本では小学校に通っていたが、ブーグレでは、学校には殆ど行かず、カフェザールで働いた。もっとも当時、移民の子はたとえ8歳でも、そういうケースが多かった。
ファゼンダでは日本、ロシア、イタリア、ポーランドからの移民数百家族が就労していた。労働は厳しかった。夜明け前に鐘の音が響く。起床の合図である。眠い眼をこすって撥ね起きる。作業衣を着てカンテラを灯す。女は弁当をつくる。
6時、第二の鐘で家を出て、カフェザールに向かう。エンシャーダ(鍬)などの作業用の小道具、弁当その他の小荷物を持って……。道を行くと、朝露でズボンが濡れて、ひんやり冷たい。畑に着く頃、東の空が白みかける。畑では、女は重装備だった。髪を布キレで包み麦藁帽子を被り、袖長の作業衣を着、長いスカートの下にズボンを履いていた。虫や草の葉が肌を刺すのを防ぐためだった。
罵倒された日々
少年の家族は、僅か一千本のカフェー樹の世話を請け負った。農業経験がなかったので、そうしたのだ。が、作業は捗らず、馬に乗って見回りに来るフィスカールが、
「こんな怠け者の日本人、見たことがない!」 と口を歪めて罵った。
手にできる豆を潰し、布を巻いてエンシャーダをひいた。その布に血が滲んだ。収穫時、寒い日など手が痛くてカフェーの実の採取ができない。棒で叩いて落とした。それを見つけたフィスカールが来て怒鳴った。
「手で取れ、怠け者!」
棒で叩くと、枝を傷めるので、これは禁じられていた。両親も姉も唖の様になって働いていた。少年はコブシを固めてフィスカールを睨み付けていた。
食べて行けなかった。日本から持って来た時計や着物が消えて行った。オウリーニョスで高熱を発した妹は脳を犯され、元に戻らなかった。少年は(なぜ、こんな処へ来てしまったのだろうか)と不思議に思った。
2年契約が終わった1927年、一家はブーグレを出て別のファゼンダへ移った。ここは、現在はアンジラーという町(ムニシピオ)になっている。当時はインガーといって、カンバラーの一部だった。少年は10歳になっていた。
からみつく不運
新しいファゼンダで労務者として働いた少年の一家は、4年目に収穫したカフェー、僅か100俵だったが、自分のものとした。(どういう労働契約であったか、資料類は不記載)
ところが、この100俵を掛売りした相手に夜逃げをされてしまった。相手は同じ日本人だった。父親は放心の態で口もきかず、ピンガを飲み続け、ろくに食事もとらなかった。
それから暫くして、冬の一日、気温が急に下がった。澄み切った濃紺の空、風はなく、木の葉は寒さに縮まっていた。人々は恐怖に震えながら、囁き合った。
「来るゾ……」
何が来るのか、言わずとも判っていた。霜である。翌朝、戸外に出ると見渡す限り真っ白であった。太陽が昇るにつれ、カフェーの葉は、生気を失って行った。少年は葉を手で撫でながら「枯れないでくれ!」と祈った。しかし2、3日もすると、葉の色は黒色に変わっていた。その葉が風で枝を離れ、カサカサと舞った。
振出しに戻って、改めて3年契約を結んだ。3年後、一家は少し纏まった額の現金を得た。が、移動した別のファゼンダで、マレッタ(マラリア)が発生、家族全員が罹病してしまった。マレッタは、この地方一帯で発生したが、特にインガーの場合、酷かった。数カ所のファゼンダで、数人から十数人が就労していたが、
「(多い時は)毎日、葬式だった。町に棺がなくなった。板で棺をつくった。中には棺を買う金がなく、サッコに入れて墓場に置いてきた人もいた」(サッコ=袋)
と資料類にはある。
武雄の一家は町に移転し治療に専念した。幸い助かったが、漸く手にした虎の子は治療費で消えてしまった。移住して来て9年が経ち、少年は17歳になっていた。当時の感覚では、もう少年ではなかった。青年武雄であった。
一家は、アルマゼンで掛買いをして、糊口を凌いだ。5年経った。貧窮生活に変りはなかった。武雄、22歳。
先に触れたことだが、当時の移民は誰もが4、5年で日本へ帰るつもりであった。錦衣帰郷こそ目的であった。しかし、武雄たちには、その見込みは全く立たなかった。