長崎に原爆が投下されてから70年の9日、8月に参加するカラオケ大会では毎回「長崎の鐘」を歌う知人(80)の兄(93)が亡くなった▼7日夜、「人が識別できなくなった」と聞いた後だけに、最初に来たのは「やはり」との思いだったが、「父の日」に父や祖父、長兄にあたる人を亡くした遺族の悲しみはいかばかりか。知人夫妻らは同日、郷里ジュキアに飛んだが、8月は「長崎の鐘」を歌うのを常とする知人が9日の大会出場を見合わせていたのは兄の弔いのための神の配剤だと改めて思った▼終戦70年の今年はNHKでも様々な特別番組で、当時小学生だった被爆者達の同窓会は出席者が減り80年は無理との声も出ている事、口をつぐんでいた被爆者達も戦争経験を語り始めた事、被爆者の家族ら、若い人達が語り部としての活動を受け継ごうとしている事などを報じている▼自分が体験していない事を語り伝える事は難しい。しかし、被爆体験を含む戦争経験者が死に絶えてしまう前に語り部としての責務を受け継ぎ、戦争反対や核兵器廃絶を叫び続ける事は、唯一の被爆国である日本と日本人の責任だ▼コラム子の次兄は終戦当時満州におり、母に背負われて引揚者用のトラックに乗せられたが、押し潰されそうになって「痛い」と叫んだ長兄のために母が空間を確保しようとする間に圧死し、引揚船の中で水葬にふされた。それを聞いた時は戦後20年以上経っていたが、以来、「何があっても戦争を許してはならぬ」との思いは頭を離れない。歌やビデオで静かに核廃絶を訴える知人や親族達への慰めも併せ祈る中、長崎の原爆記念日は過ぎていった。(み)