儲けに儲ける
1961年、40アルケーレスの土地を借りて棉を作ろうとした。しかし営農資金がない。知人に相談すると、貸してくれた。この時も儲けた。借地していた40アルケーレスの土地を買えるほどだった。44歳。以後60、70、80、100アルケーレスと年々、棉の植付けを広めた。その度に儲け、土地を買い足し、また植え、また儲け……の繰返しだった。面白いほど儲かった。
植付けは数百アルケーレス単位になり、さらに千アルケーレス規模に飛躍した。綿の仲買商も兼ねた。弟、息子、甥たちも仕事に加わった。
1968年、マツバラ綿花㈲を設立した。バンデイランテスに精綿工場をつくった。農業(棉づくり)、商業(仲買)、加工業(精綿)と、事業を発展させたことになる。上野米蔵や安瀬盛次と同じ流れの形成者となったわけだ。武雄は51歳になっていた。
1970年、マツバラ綿花は2、000アルケーレスという途方もない規模の棉づくりをやってのけた。精綿工場を増設し、自社の生産分と外部からの買付け分を合わせて、250万アローバスという膨大な実綿を処理した。この国の業界では最大級で、マツバラの名は広く鳴り響いた。
そして1972年、遂にファゼンダ・ブーグレを手に入れたのである。ブーグレが競売に出されたと知った時、武雄は「なんとしても買いたかった」という。少年時代、フィスカールに罵倒されたことは、一日たりとも忘れたことはなかった。落札が決ったその時も、彼は泣き出した。それから、ブーグレに行った。カフェザールの土に足あとをつけて歩いた。枯れたカフェー樹に触った。昔、そこで暮した小屋の腐りかけた板壁をジッと見つめた。55歳。
フットボールのクルーベを経営
2年後、松原武雄は再び世間をビックリさせた。カンバラーにフットボールのクルーベをつくったのだ。プロのクルーベであり、維持するためには相当な経費がかかる。何故、そんなことをしたのか。武雄は「寂れるカンバラーに活気を取り戻したかった」と、後に語っている。往年、北パラナの玄関と言われて賑わったカンバラーも、度重なる降霜、カフェー樹の老化などのため活気を失っていた。
マツバラ綿花は、従業員を動員して競技場を造り、100アルケーレスの棉畑を運営費の捻出用に充てた。このクルーベは一部リーグ入りをし、日本から選手の卵を呼びプロに育てるほどになった。
絶頂期に和議倒産
1975年、松原武雄はブラジル移住50年目を迎えた。58歳。以下は同時期のマツバラ綿花の事業概要である。
パラナ、サンパウロ両州に11のファゼンダ、計3、300アルケーレスを所有。棉1、100アルケーレス、大豆、小麦を各々700アルケーレス栽培。バンデイランテスで大型精綿工場を操業。サンパウロ市に支店を置き輸出もしていた。
1977年、武雄は還暦を迎えた。この頃から実務は弟、息子、甥たちに任せるようになった。自身はブーグレのセーデの大邸宅で暮していた。人生の絶頂期だった。
しかし、この年、マツバラに突如、危機が襲った。綿が不作の上、市況が暴落、借金の金利が嵩み、赤字は雪だるま式に膨れ上がった。取引先の財務状態も悪化、債権回収が大きく焦げついた。12月のある日、ブーグレへ、弟と息子が車を飛ばしてきた。
「何かネお揃いで?」と訊ねる武雄に弟が答えた。
「コンコルダッタ(和議倒産)を申請してきた」
武雄はギョッとなって絶句した。弟は、「デーベ(支払い)が4億ある。貸しが2億8、000万あるが、なかなか取立てができない。金利が膨らんで、プロテストされている」と続けた。
万事休す、であった。「マツバラは二度と立ち直れまい」と噂が広まった。しかし幸いⅠ年半で負債を清算、再起した。綿の市況が反騰したのである。
巨大牧場を買う
7年後の1986年、マツバラ綿花は、またも世間を驚かせた。フォルクス・ワーゲンが北伯パラー州に所有する巨大な牧場を買い取ったのである。14万ヘクタールという面積で、10万頭の牛を養える規模だった。その時点では開発面積5万4千ヘクタール、4万7千頭の牛が居た。ブラジルでは最大級の牧場であった。マツバラはブラジルの十大地主に名を連ねた。
以上、死の淵からの見事な飛翔ぶりであった。このまま行けば、松原武雄とマツバラは、その名を、この国の日系社会史に深く刻みつけたであろう。