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宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(27)

「またむずかしい用語を使って、あんたこそ人を馬鹿にして、日ごろわたしを便利な道具ぐらいにしか考えていないのでしょう。ちゃんと分かっていますからね」
「それじゃ、おあいこじゃないか、お前はおれを案山子ぐらいにしか思っていないだろう。文学などいくら勉強しても、一文のたしにならないと、お前は言ったが、これでもいくらかの賞金はもらえるらしい」
「百つかって十かえってくるようなもので、損なのは分かっていますよ」
「十年の研鑽なって、やっと佳作になった。来年度は入賞作をものにするぞ、材料はいくらでもためてあるんだ」
「まるで気違いだよ、この人は」
「一陽来春だ。出世したんだから、そのつもりでいてくれ」
「あんたという人は水くさいから、わたし辛いのですよ、それが他人にまでわかってしまって」
「水くさいか、そうでないかほどうしてわかるのだ」
「そりゃ、わかりますとも」
幾日かすぎたのち、太一は千恵に話しかけた。
「もう何年ぶりだ、サンパウロ市へ行っていないが、いっしょに授賞式にでかけるか。I通りのYブッフェが場所らしい、子供たちは正治(義弟)に頼み、留守はジョンにまかせとけばよい」
「それはいつですの」
「土曜日とあったから、明日だな」
「明日!」
千恵は悲鳴のよう声をだした。
「着物はどうします、髪の手入れは、あんたという人はいつもこうですからね」
「誰が田舎者の服や髪に眼をやるものか、おれは古い背広でゆく、文学をやるほどの者にそれぐらいの気概がなくてどうする。そして夫婦は一心同体とはどうだ」
「阿呆らしい、泣かされるのはいつも女ですからね、なに一つしんみりと心をいれて夫婦らしくしてくれたためしはないのに、あんたのは鍍金ですよ、世間は騙されてもわたしはちゃんと分かっているんですからね」
「そうか、おれは嘘でかためた男か、なるほど情のうすい身勝手な男、偽病人(太一のは多分に神経症の心臓病と珍察されたのが、いつか千恵の知るところとなった)ずるい男初めから間違ってくっついた二人だから、この歳まできたのが不思議なぐらいだ。そのうちに天罰てきめん悪役には罰がおりるはずだ、お前は生きのこって、おれの悪口でも言いながら余生を楽しむんだな」
「またそんなことまで独りぎめにして、あんたはわたしが先に死んでも、寂しくはないでしょうね、わたしね、もしものことがあっても、あんたのことは丈二がいるので心残りはないのですよ」
 人間、明日のことは分からないというが、過去のある日に彼らがこんな会話をしたのを太一は思い出した。ー自分は宿痾もちだし、女房よりは五つもうえだから、千恵がのこって当然だろうにー、このように考えると何とも解けない謎をつきつけられたような混迷におちる。
 彼ら夫婦は生きてきて、こころの通わないまことに浅い縁の者たちであったが死に別れもじつに呆気ない別れになった。(終わり)