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被爆70周年=サン・ローレンソ・ダ・セーラ 丹生登

 私の郷里は長崎の爆心地から40キロメートル程の距離です。直接被災はしなかったのですが、私達の町に2~3日目と被爆した人達が何十人何百人と汽車から降りてきていました。医院まで100メートル程の道を歩く途中、主に火傷で全身水ぶくれの負傷者達が多く、倒れ動けなくなり息絶えて行ったあの情況が脳裏の何処かにあって、今でも思い出すのです。小生9歳の時の思い出です。
 祖父の弟達3家族はほとんど全滅。兵作伯父達は長崎は空襲が激しいので、生家である私の家の離れ屋に2ヶ月程前から疎開していたのですが、被爆前日、息子達の様子を見に行って被爆してしまいました。
 末っ子のテイ伯母は住まいが大波止で、即死は間逃れたのですが、爆風で窓ガラスが割れ、破片で顔面に浅い傷を負った程度。しかし娘が純心女学校生で、当日は勤労奉仕で浦上に行って居り、探せども探せども見つける事が出来ませんでした。
 また、兄達3家族の消息を探せども、それぞれの住まいが爆心地に近かった為に家は消滅。遺体も見つける事は出来ませんでした。4日目に私の家に辿り付いたのですが、阿鼻叫喚、まさに生き地獄の中を3日間さ迷った状況を繰り返し聞かされた事を思い出します。
 昨日までは息災だった 兄達の家族、特に当日の朝は元気良く行って来ますと言って出て行った娘。親族合わせて12人、一瞬にしてこの世から消えてしまったのです。その驚愕は計りしれない事だったと思われます。
 額の傷は2人共たいしたことなく、短い期日で直りました。40~50日経った頃、南洋で戦っていた2人の子息が復員して来ました。住んでいた家はガラス窓が割れてた程度で焼けずに残っていたので、揃って帰って行きました。
 ところが、4~5ヶ月して夫婦とも亡くなってしまいました。2人とも齢60歳は越してたのですが至って壮健だったので、恐らく顔の傷口より高濃度の放射能に侵されていたのだろうと推察されます。
 あれから70年。幸い人類の英知であの様な不祥事は起きていませんが、この地球上に核物質が有る以上、安心出来ないのです。
 最近は核の平和利用とは言っていますが、原子力発電所で事故が起きれば、人類にとって、否、地球上のあらゆる生物にとって最も重要なる空気が広範囲に長期間に渡って汚染される重大問題です。
 事故が起きずとも、正常に廃炉したとしても非常なる長期間の処理を必要とし、また使用済みの廃棄物の処理はまだ解決されていないのです。何としても核の利用は戦争用も平和利用も、絶対廃止すべきと思います。